幕末に西洋料理をいち早く体験したのは黒船艦隊のペルリ提督と日米和親条約の締結交渉をしていた幕府の役人である。嘉永7年、1854年3月27日、ペルリ提督はポーハタン号の船上でディナーパーティを催し、林大学頭以下幕府の役人、警護の藩士ら、約70人を招待した。料理はスープ、塩漬けハム、牛の舌肉のロースト、禽肉のロースト、それにパンであった。デザートはパンチ、砂糖菓子、ミルク菓子と甘いリキュールであった。食材に使った牛や羊は船内で生きたまま飼われていたのである。幕府の役人たちは好奇心に溢れていてすべての料理を行儀よく食べ、シャンパンやマデラワインを飲み、残ったものは懐紙に包んで持ち帰ったと記録されている。

 安政5年、1858年に諸外国と修好通商条約が結ばれると、横濱、函館、新潟、長崎の開港場では外国人居留地を中心にして西洋料理店が次々に開かれるようになった。横浜では安政6年、外国人居留地内に日本最初の洋式ホテル「横浜ホテル」ができ、明治3年、1870年には「ホテルグランド」、明治5年には「オリエンタルホテル」が開業して本格的なフランス料理を提供した。同じころ、西洋亭を開いた小林平八はアメリカ領事館で、中央亭を開いた渡辺鎌吉はオランダ公使館でコック修行をしたのである。

東京で明治初年に開業した西洋料理店は神田の三河屋、采女町の西洋軒、築地の精養軒、日新亭、南茅場町の海陽亭、麹町の四万軒、上野の精養軒、九段の南海亭などである。明治九年に開業した上野の精養軒は現在も同じ場所で営業を続けている。明治35年に東京市役所が発行した東京案内には、東京の日本料理屋は207軒、西洋料理店は42軒、中華料理店は2軒と記載されている。

 これらの西洋料理店ではどのくらいの値段で食べられたのであろうか。西洋料理の元祖とも言われている慶応元年創業の神田の三河屋の引札(品書き)を見ると、肉四品、スープ、菓子付、一人前が2百疋(五〇銭)、九段の南海亭ではスープ、フライ、ビフテキ、パン、コーヒーで一人前が金二朱と銀二匁(十六銭)である。県庁の給仕の月給が五〇銭、官員の初任給が五円の時代であるから、現在の価格にすれば2万円ぐらいであろうか。とても庶民の懐では食べられるものではない。日比谷公園内に明治36年開業した松本楼ではランチが50銭から1円であった。

 西洋料理を食べるとき、ナイフヤフォークをどう扱うかも厄介であった。宮中では外国公使との晩餐会がフランス料理で行われるため、皇后や女官たちが築地精養軒の主人、北村重威を呼んで「西洋料理食事作法の稽古」をしたと言う。明治2年、浅草に西洋料理店、開陽亭を開いた大野谷蔵は、店に食べに来た客が使い慣れないフォークとナイフで口の中を切り血だらけにする、スープ皿を手に持ってみそ汁を飲むように飲むから、胸から膝にかけて熱いスープを浴びてしまう、ナイフに肉を刺したまま口に入れるから唇を切って血を流すなどの珍事が毎日のように起こったと開店当時の思い出を語っていた。ずっと後になり肉食がかなり普及した頃でも、大正四年の読売新聞には結婚披露宴で新郎新婦はナイフとフォークを使って西洋料理を食べているが、舅と姑は日本料理を運ばせて箸で食べていると言う記事が珍しそうに載っている。

しかし、明治も30年ごろになると、肉料理、フライ、油料理が一般家庭でも作れるようになり、洋食店には米飯に合う和洋折衷型の一皿洋食が登場してくるのである。

 

しろくま

  さん

西洋料理店を初めて楽しみに来たお客さんからみれば、
食べ慣れていない料理だっただけに、珍事が起きてしまうのは
しょうがなかったのかもしれませんね。

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