明治初年、場のドイツビールを日本で製造しようと苦労した数名の熱き男たちがいた。その一人が明治9年に開業した北海道開拓使直営の札幌麦酒醸造所の主任技師に抜擢された中川清兵衛である。中川清兵衛は新潟県長岡市の出身で、上京して横浜のドイツ商館で働くうちにビールに興味を持ち、慶応元年(1865)、幕府の禁を破ってイギリスに密航し、ドイツに渡ってベルリンのビール工場で2年間修業して帰国したばかりであった。

このビール工場は従業員24名の小さな規模であり、冷製ビール(ドイツ風のラガービール)の製造をしようとした。しかし、中川清兵衛の努力にもかかわらず、ビールの製造は順調には進まなかった。低温で発酵、貯蔵するラガービールは厳冬にならなければ作ることができず、やっと仕込みを始めても新鮮なビール酵母が手に入らないので発酵が順調に進まなかった。やっと製造した瓶ビールを時の内務卿、大久保利通に贈ったところ、東京まで船で運ぶうちに瓶の中に残っていた酵母が再発酵してコルク栓が吹き飛び、中身が流失してしまうという大恥をかいた。瓶詰めビールを低温殺菌しておけばよかったのであるが、清兵衛はヨーロッパで開発されたばかりのこの新技術を知らなかったのである。

北海道開拓使長官、黒田清隆はこの開拓使ビールを政府高官などに贈るときには別単という説明書を添えさせていた。「・・・・・此冷製制麦酒は風味爽快にして健胃の効あり。・・・・・氷室中或は冷所に置き,或は瓶のまま冷水に浸し置くべし。之を喫するに当たって氷塊を投ずれば其味爽快にして極めて美なり」と書いてある。政府の高官であっても麦酒はこれほどまでに物珍しいものであったことが分かる。

しかし、苦労の甲斐があって、その後は製造が順調に進み始め、4年後には年間54キロリットルほどを販売することが出来た。明治14年、明治天皇が開拓使醸造所に行幸された時には中川清兵衛がドイツより持ち帰っていた大ジョッキで天皇にビールを2杯も注いで差し上げたそうである。中川清兵衛は洋風の大きな官舎に住み、毎年春になると地元の名士を招いて官舎の庭でビールを飲ませる園遊会を開くなど派手な生活をしていた。

しかし、明治15年、北海道開拓使が廃止されると事情が変わり、醸造所は民間に払い下げられて大倉組の札幌麦酒醸造所となり、その後、現在のサッポロビール株式会社に継承されることになった。これに伴い、清兵衛は追われるように札幌麦酒醸造所を辞職し、明治24年、小樽に移住して旅館を経営していたが利尻島の開発事業に出資して失敗し、失意のうちに大正5年、69歳で病没した。末期の水は生前の彼の希望通りビールであったという。今、彼の生家があった長岡市与板町では彼の功績を称えて「中川清兵衛記念ビールフェスタ」が毎年、開催されている。

四季を通じて本格的なラガービールを醸造するには当時発明されたばかりのアンモニア圧縮式の冷凍機が必要であったが、1台5万円もする高価な冷凍機を数台も輸入することは資本力の弱い醸造所ではできることでなかった。明治3年、横濱に日本初の麦酒工場を開設したコープランド(変わり行く日本食 7参照)や、北海道開拓使麦酒の中川清兵衛がラガービールの製造に苦労した原因はここにあった。

しろくま

  さん

ラガービールの製造には冷凍機が欠かせなかったことを初めて知りました。
覚えておきます。

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