明治30年ごろになると大資本の会社組織で経営するビール会社が現れてきた。ちょうどそのころ、ドイツで最新のビール醸造技術を習得して帰国したのが大阪麦酒会社の技師長を務めた生田秀である。生田秀は新潟県佐渡市に生まれ、上京して東京外語学校を卒業して内務省衛生局に入り横浜衛生試験所の技手をしていたが、明治21年、設立準備中の大阪麦酒株式会社から招聘されてミュンヘンのワイヘンシュテファン醸造学校(現在のミュンヘン工業大学ビール醸造学科)に1年半留学させてもらい日本人最初の「ブラウマイスター」の称号を得ていた。

ルイ・パスツールが発明した低温殺菌法、クリスチャン・ハンセンが開発した酵母の純粋培養法など最新のビール製造技術を習得して帰国した彼は、ドイツ人技師マックス・メンゲルとブルノ・ダニールの協力を得て当時、世界最新鋭のビール工場と評判になった吹田村醸造場(後のアサヒビール吹田工場)を建設した。

アサヒビール発売の新聞広告によれば「我国産の麦酒を興さんの主意にて化学士生田秀を独乙国に派遣し、あまねく醸造法の蘊奥を探求せしめ、爾来(じらい)同国の建築法に倣い,煉化石四層楼の工場を築造し、最新式の醸造機械及び製氷設備を据付け、機械はすべて蒸気力にて運転し・・」とビール国産化しようとする意気を示している。

彼は明治初年に日本最初のビール工場を開設したコープランドや中川清兵衛に比べて幸運であった。と言うのは、彼がドイツでビール技術を学んだ1980年代はリンデが開発したアンモニア式冷凍機がビール工場に相次いで導入され、低温殺菌法や酵母純粋培養の器具が普及してビール製造が一気に近代化され始めた時代であったからである。これらの最新設備と技術を使って明治25年に製造を開始した本格的なラガービールは予想以上に好評で製造量は毎年倍増し、明治27年には800キロリットルを超えた。職工の日給が21銭であったころであるが、生田秀は支配人兼工場長を務めて月給180円をもらっていた。

しろくま

  さん

ビール製造が一気に近代化され始めた時代のことを考えると、
当時のビール産業はうなぎのぼりに拡大していったのでしょうね。

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