和食に不足しがちなタンパク質や脂肪を補給するには集団給食という新しい食事方式が役に立った。それは明治初年に創設された陸海軍の兵士に支給した軍隊給食と、第二次大戦後に全国の学童を対象にして始められた学校給食である。

 軍隊での給食はどのようなものであったのか。富国強兵に邁進する明治政府は明治6年(1873)徴兵制によって近代的な陸海軍を編成した。兵営では兵士に1日に白米6合を摂る食事を支給した。民間では米は1日、2合3勺ぐらいしか食べられず、麦飯を食べて暮らしていた農村の青年は「軍隊に入れば白い飯が腹いっぱい食べられる」と喜んだという。

ところが、兵士たちに脚気が蔓延したのである。脚気は米を主食とする民族に特有の疾患であり、初期の症状は身体の倦怠感、食欲不振などに過ぎないが、やがて多発性神経食害が起きて、ついには呼吸不全、心不全によって死亡する恐ろしい病気である。脚気の原因が白米食にあるらしいと判断した海軍医務局長、高木兼寛は水兵の食事をパン、あるいは大麦を混ぜた飯に替えることにより脚気を一掃することに成功した。しかし、陸軍では医務部長であった森林太郎(後の文豪、森鴎外)らが麦飯の採用を躊躇したため、日露戦争での戦病死者4万7000人の中、脚気による病死者が2万7800人にもなるという悲惨な結果を招いた。脚気の原因が白米食であると判明してからは陸軍の兵隊食は大麦を混ぜた飯に、海軍ではパン食をするように変更された。脚気の原因がビタミンB1の欠乏症であると医学的に証明されたのは、明治43年、東京大学教授、鈴木梅太郎博士が米糠から脚気防止に効果がある成分、オリザニン(後のビタミンB1)を単離したことによる。

軍隊では動物性タンパクと脂肪に富む牛肉の煮込みが1週間に3回ほど出された。当時、民間では牛肉にまだ馴染みがなかったが、軍隊では兵隊1人に1日、36グラムの牛肉を食べさせていた。現在、家庭の惣菜の定番になっている肉じゃが は明治34年、舞鶴鎮守府長官であった東郷大将がビーフシチュウに似せて作らせた艦上食が始まりである。延べ100万人の兵士を動員した日露戦争では戦地食として牛肉大和煮、ローストビーフ、コンビーフの缶詰、ビスケット、乾パンなどが大量に使われた。

第二次大戦後の国民の食生活に大きな影響を及ぼしたのが学校給食である。学校給食の始まりは明治22年、山形県鶴岡市の私立忠愛小学校で貧しい家庭の児童におにぎりと塩鮭、漬物の弁当を支給したことであった。国費で学校給食を実施したのは昭和7年、米の凶作続きで苦しむ北海道、東北地方の農山村で激増していた欠食児童に給食をしたのが最初である。昭和19年からは6大都市の小学生200万人に給食を実施することになっていたが、戦争が激化したために中止になっていた。

学校給食が再開されたのは、第二次大戦後の深刻な食糧難で児童の栄養状態が顕著に悪化したからである。政府は児童の栄養状態を改善するため小学校給食を再開することを決定し、アメリカ駐留軍、ララ委員会(アジア救済連盟)、ユニセフ、ガリオア資金(占領地域救済連盟)などから小麦粉と脱脂粉乳の援助を受けて、昭和22年に全国主要都市の小学校児童、300万人に週2回、300キロカロリーの昼食を支給した。さらに、昭和27年からは全国の小学校児童にコッペパン、脱脂粉乳ミルクとおかずの給食を支給し、続いて中学校生徒にも実施した。

 当時の学校給食では家庭食で不足していた動物性タンパク質や脂肪を補うために洋風の献立が多く、おかずの定番は鯨肉の竜田揚げ、カレーシチュウ、ポタージュスープなどであった。パンとミルク、魚のフライ、マカロニサラダ、グラタン、八宝菜などの学校給食を全国1500万人の児童、生徒が成長期の9年間、毎日食べたのであるから、児童たちの栄養改善に役立っただけでなく、家庭でのパン食の普及、おかずの洋風化を促進することにもなった。学校給食は戦後70年間、継続実施されているから、戦後生まれの世代の

食嗜好に大きな影響を与えたのである。

  さん

宮沢賢治の「アメニモマケズ」にある1日に玄米4合も食べるというのは食べ過ぎなのではないかと思い近い時代の兵隊の食事について調べたところこのサイトに辿り着きました
兵隊が1日6合も食べていたのであれば民間人も4合くらい食べていても不思議はないですね

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しろくま

  さん

学校給食の始まりは、多くの子供達に希望を与えましたね。
私も小・中学生の給食の味を思い出しながら、栄養のことを考えてみようかと思います。

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