私たちはかつて経験したことがないほどに豊かで便利な食生活をしている。スーパーマーケットには全国各地の食材、海外から輸入した食料が溢れていて、家庭の食卓には日替わりで和風料理、洋風料理、中華風料理が出される。調理をしなくてもすぐに食べられる即席食品や調理済み総菜があり、外食店も手軽に利用できる。 現代の食生活の最大の特長は国民の誰もが、どこでも、同じように豊かな食事ができるようになったことである。富裕な人も、そうでない人も、都会に住む人も、地方に暮らす人も同じように豊かな食事を楽しむことができる。日本人がこのように、なに不自由なく食べることができるようになったのは50年ほど前からのことなのである。 高度経済成長のお蔭で収入が増えたので、食べることについての経済的負担が欧米先進国並みに軽くなったからである。食費が家計支出の何%を占めるかというエンゲル係数は欧米先進国並みに20%近くまで低下している。

 誰でも、何時でも、どの地域でもじように豊かな食事ができることは、かつては願っても叶えられなかった素晴らしいことなのである。しかし、それがいつしか当たり前のこととなり、ありがたいと思はなくなったことが近年思いもよらぬ弊害をもたらすことになった。どのようなことなのかと例を挙げてみると;まず、食料が国内で自給できなくなり、足りない食料を大量に海外から輸入しなくてはならなくなった。食料自給率が40%であるから、近い将来に世界規模の食糧不足が起きたら私たちは飢餓状態に陥りかねない。発展途上国には飢餓や栄養不足で苦しんでいる人が8億人もいるというのに、私たちは有り余る食料の3割を使い残し、食べ残して無駄に捨てている。主婦が食事ごしらえをして、家族そろって食卓を囲んで楽しく食事をすることは忙しい生活の片隅に追いやられた。親と一緒に食事をしていない子供が増え、郷土料理やおふくろの味が忘れられていく。加工食品や外食に頼るなど他人任せの食事をすることが多くなったから、そこに危険な農薬や食品添加物が使われてはいないかと心配をしなければならない。中高年者は食べ過ぎてメタボ肥満になり、3人に1人は生活習慣病に苦しむようになった。

 国民全体がスーパーマーケットや小売店、外食店で飲食のために使ったお金は約80兆円であるが、その内で農産物や水産物を生産した農家や漁労者の収入になるのは12兆円に過ぎない。命をつなぐために欠かすことのできない大切な食料が経済活動のための商品と化して、それを大量生産、大量消費する食品産業、流通小売り産業、外食サービス産業の経済規模が大きくなり過ぎているのである。そして、この膨張し過ぎた食の経済システムを支えるために、行き過ぎた食の豊かさが求められ、必要のない食料の消費、無駄使いを強いられていると言ってよい。

 このように私たちの食生活はあまりにも豊かになり,便利になり過ぎ、人任せになって、どこかおかしくなってしまっている。食料がいつも豊かにあり、誰でも欲しいだけ食べられるようになったのはとても良いことなのであるが、いつしかそれが当たり前のこととなり、とくに有難いとは思わなくなった。現代ほど食事をきちんと摂ることを疎かにして、食べ物を粗末にしている時代はかつてなかったのである。なぜ、これほどまでに食物を粗末にし、食べることをいい加減にするようになったのか。食べるものは生命の糧であるという畏敬の心を忘れて、スーパーマーケットで買える日用品と同じように考え、食事をすることの大切さを忘れて忙しい生活の片隅に追いやってしまったからではないだろうか。私たち日本人は食べるということにかつては大きな社会的、役割や価値があったことを忘れているのである。この数十年のことに限って言えば、食べることは栄養を摂り、口舌を楽しませることとしか考えてこなかったのではないか。食料は無理をして国内で生産するよりも海外から安く買えばよいと考えてきたではないか。有り余る食べものを前にして、それを生産してくれた農家や漁業者の苦労に感謝し、それを大切に食べようとする心があったであろうか。そのことが現在の食生活をすっかりおかしいものにしてしまったと言ってよい。このまま同じような気持ちで食生活を続けて行けば、必ずや次の世代の人々に予測しがたい悪影響が生じるに違いない。

 人類が農耕牧畜を始めてからの1万年、前世紀の半ばまでは世界のどの地域においても食料は常に不足していた。だから、人々は食べるものを作り、それを食べることに特別の思いを込めて暮らしてきた。世界規模の食料経済システムによって食料を有り余るほど手に入れることができるというかつて経験したことのない状況になった現在においては、どのような心構えで毎日の食生活に臨めばよいのであろうか。表面的には豊かであるが、内面的には心配なことが多い今日の食生活をより良い方向に戻すには、私たち自身が食事を作る心とそれを食べる心の在り方を改めなければならない。今後の食生活の在り方について方向が定まらないのは、私たちが今の時代に必要とされる「食べる倫理」を持っていないからではなかろうか。これではだめだと私たちを踏みとどまらせ、より良い方向に向かわせてくれる新しい食の倫理が必要なのである。「どのように考えて食事を作り、どのような願いを込めて食べるのか」という現代の食の倫理を模索することが求められているのである。

きんにく

  さん

いつでも欲しいものを食べることができる時代になり、食事できることの有難さを忘れてしまっておりました。食の倫理の見直し、人生を豊かにできる食事の時間に変えていきます。

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saku

  さん

いつもブログを拝見させて頂いております。
飽食の時代になり、食材一つ一つに感謝することが
少なくなってきてしまっていますよね。
消費者も意識するとともに、食の専門家の方から
発信し続けて頂きたいと思います。

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あくあてら

  さん

「有り余る食べものを前にして、それを生産してくれた農家や漁業者の苦労に感謝し、それを大切に食べようとする心があったであろうか。」
時間制限を設けて破棄処分される食品が溢れる今だからこそ、後世の為にも考え、伝えてる。
正しいとは思いつつも、今の生活に慣れ親しんだ私たちにとって容易ではないのが現実です。
ハードルが高いからこそ、少しづつ確実に前に進んでいきたいものです。

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たかはし

  さん

食べ物があって当たり前、飢えなどが考えられない社会だからこそ日々の食事に感謝するという姿勢を忘れないようにしようと橋本先生の記事を拝見して感じました。

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いんげんまめ

  さん

野菜・魚・肉など現地で作っていらっしゃる人たちのおかげで
私たちの生活は成り立っているわけですね。
そう考えると、一口一口がまたおいしく感じられます。

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  さん

「表面的には豊かであるが、内面的には心配なことが多い今日の食生活」
仰る通りだと思いました。とても感慨深いです。

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ピーマン

  さん

現代では、確かに食べ物が身近に存在するのが当たり前になり
食べ物がなかなか手に入らないことが想像できない時代になりましたね。
これからは、今の豊かな食生活を支えている生産者にも感謝しながら
食事をしていきたいものです。

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