かつて経験したことがないほどに食べものが豊かになった今日、私たちは食べることに何を期待し、どのような意義を見いだせばよいのであろうか。

 食生活があまりにも豊かに、便利に、そして多様になり過ぎたために、私たちは何のために食べているのか、分らなくなりかけている。かつて食料が不足していた時代には、乏しい食料を分け合い、大切に食べる倫理があった。世界中どこの社会においても、食べものはみんなで分かち合うものとみなされていて、独り占めすることは非難されたのである。より多くの人で分け合って食べるために、一人一人がもっと食べたいという欲求を我慢していた。ところが、食料不足が解消して、誰もが食べたいだけ食べられるようになった現在では、人の目を気にすることなく、食べることに自己主張をすることが許されるようになった。今、食べることについて一番重視していることをアンケート調査してみれば、美味追求、健康志向、安全・安心、食卓の団欒、経済性、便利性などと多様な答えが返ってくるだろう。つまり、食べることに対する価値観が多様になり、そのために食の全体像が混乱しているのである。

 このように、食べることに対して自己主張をすることは個人の自由であろうが、それが過剰になってエゴイズムに陥ることになり、社会全体としての食の公益性を損なうことは許されない。私たちは食べるということについて必要とされる社会への配慮を見失いかけているのである。私たちは食べるものを自給自足しているのではなく、多くの人たちが協力して生産したものを食べさせてもらっているのだということを忘れてはいけない。みんなが支え合って生産したものは、みんなで分かち合って、心を通い合わせて食べるのが道理である。連帯と共助の精神、それが今後必要とされる食の倫理というものではなかろうか。

  とにかく、現在の豊かで便利な食生活と必要な食料を、将来も持続して確保できるように対処することが、私たちの世代に与えられた責務になる。いくら科学技術が進歩しても、食料を人工的に作ることはできないし、食べることが不要になるわけではない。かつての貧しく、不便な食生活で我慢しようとする人はいないであろう。だからこそ、私たちはこれ以上に豊かな食料を求めてはならない、必要以上に便利な食品を求めてはならない。食料が有り余っていても無駄にしてはならず、勝手気ままに食べてはならないのである。人々が食の欲求をコントロールすることを忘れたとき、市場に溢れている豊かな食料は虚しい余剰となるほかはない。

 これまでは食べ物が足りないから節約してきたのであるが、現在は有り余る食べ物をいかに節約するかということが問題になる。足りないものを節約することは誰でもするが、余っているものを節約することは誰もがすることではないから、この違いは大きい。例えば、肥るから食べない、あるいは体によくないから食べないという理由で食欲を節制して人が多いが、近い将来、このような規範が外れてしまう可能性はないであろうか。杞憂かもしれないが、止めどのない食の欲望の開放がこれ以上に進んだらどうなるのであろうか。今後の食の倫理に求められる課題はここにある。

 今日、重要なのは、食についての行き過ぎた個人主義を超えることである。自己を抑制し、社会と同調することは、人間が仲間と一緒に食べるということを通じて身につけた食の倫理である。私たちの食べる欲求をコントロールしている要因には、空腹や栄養など生物的欲求レベルの問題、嗜好や経験など個人レベルの問題、そして文化や経済など社会レベルの問題がある。今や、食べるという行為は生物として生きるという営みを超えて、人間としてどのように生きるかという倫理の問題になり、それも個人だけのことにとどまらず、社会全体として考えるべき問題になっている。例えば、私たちが欲しいだけ食べ、惜しげもなく浪費している食料は、すべて地球自然の産物であり、全人類の大切な共有資源であるから、先進国の人々も、後進国の人々も平等に分け合って食べるべきものである。いまでも、南アフリカの貧しい途上国には飢えに苦しんでいる人が10億人もいる。それなのに、世界人口の2%を占めるに過ぎない日本人が、世界の輸出食料の10%を消費していることなどは許されることではないだろう。

 国内農業を応援するために、値段は高くても地場の農産物を買っている人は少なくない。手間はかかるが、安全で安心できる有機栽培農産物を提供している農家もある。自宅の空き地や市民農園で野菜作りをすれば、農家の苦労がよく理解できるだろう。規格外れや賞味期限間近の食品を恵まれない人々に配る「フードバンク」活動が始まっている。親が夜遅くまで働いているので、お腹を空かせて待っている子供たちのために「子ども食堂」を開いているボランティアがいれば、一人暮らしの老人たちの栄養状態を気遣って「まごころ弁当」を届けている地域活動家もいる。家庭で料理をする主婦が少なくなったことは事実であるが、これまでどおり家族のために愛情をこめて食事作りをしている主婦も多い。みんなで支え合い、分かち合って食べることは大切なのである。

 私たちの誰もが、多量の輸入食料に依存した豊かな食生活を今後も末永く続けられると思っているが、そうではないのである。現在のように物質的には豊かであっても精神的にはそうでもないアンバランスな食生活を漫然と過ごしていては、必ず近いうちに取り返しのつかない事態が起きる。そうならないように、私たちは飽食、そして崩食と言われる現在の食生活を見直す必要がある。これまでの人々はその時々の食の充足を願って食べていればよかったが、私たちは将来の食の安泰を考えて、毎日の食生活をコントロールすることを求められている。

 今後、どのように食べることに向かい合えばよいのかいうことは簡単には答えが見つからない問題ではある。しかし、どのように食べるのがよいのかと、考えることができるのは人間だけに与えられた特権である。これでよいのかと絶えず考え続けるところに必ずや今後の食の在り方が見えてくると信じている。

Shozzy

  さん

明らかに食べられない量の食事が出てくるのもどうにかしてほしいと思います。
旅館等に行くとこの量は無理だろう、と思うことも多々あります。
求める人がいるからこうなってしまうのだろうと思いますが、食事を余らせないような社会になるべきと思います。

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しろくま

  さん

食の倫理・・・考えてみると非常に複雑なものですね。
食が身近に手に入れられ、それがどういう経路で生産されているか、また、
どのくらい生産されているかはなかなか考えなかったところであります。
この機会に関心を深めていきます。

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