一か所に定住して農耕を始めると、それまでよりも多量の食料を安定して確保できるようになった。とくに穀物は収量が多く、保存性がよくて貯蔵しておけるので、人々は食べるものを探し回ることから解放されて生活に余裕が生まれ、人口が増えて集落が大きくなる。農耕を始める前の紀元前1万年ごろには全世界の人口はわずかに500万人に過ぎなかったが、農耕を始めた紀元前5千年には2000万人、農耕が広まった紀元前1世紀ごろには2億5千万人にも増えていたと推定できる。

 人口が増えると、多くの人々が都市に集まって暮らすようになる。都市で仕事をする人々は食べるものを自分の手で生産することを止めて、農耕をする人々が生産してくれる食料を食べることになる。これが農業の始まりである。農耕と農業はよく混同されるが、農耕とは自分が食べる作物を栽培することであり、農業とは他人のために作物を栽培して供給することである。作物の多くは都市から遠く離れた広大な畑で栽培して都市に運ばれてくるから、保存性と運搬性の良いイネ科植物やマメ科植物の種子、つまり穀物が重宝される。穀物は澱粉質に富み、タンパク質も少なくないので栄養価が高く、都市の大きな人口を支える食料にはもっとも適している。動物の肉やミルクは腐敗しやすく、遠くまで運びにくいから、食料の調達は、輸送、保存に便利な穀類を栽培する農業が中心になる。また、余剰に生産された穀物は蓄えておいて国家や都市の財源にすることもできた。古代の国家や都市の生活を支えたのは何と言っても農業であり、牧畜ではなかったのである。

 農耕がいたるところに広まると、他の地域で栽培されていた作物が移入されてきて在来の作物と競合することも始まった。黄河、インダス、メソポタミア、エジプトなどいくつかの古代文明を支えた穀物はいずれも外来の穀物であった。黄河文明圏であれば、初期には中国東北部原産のアワやキビが栽培されていたが、後期にははるか遠くの西アジアで生まれたコムギが栽培されるようになった。インダス文明圏の場合も同じであり、栽培されていたのはアフリカ原産の高粱やトウジンビエであった。中国の長江流域に興った長江文明圏だけがその地域原産のイネを栽培していたが、その水田稲作の技術が紀元前数百年頃,我が国に伝えられたのである。 ヨーロッパでは、8千5百年ほど前にエーゲ海沿岸に、6千年前にイギリス諸島に農耕技術が伝えられた。そこでは西アジア原産の麦と豆の栽培、それにヒツジやヤギの牧畜が始まり、やがて、ローマ帝国がその版図をアルプスの北側に広げるに伴い、エンドウ、カブ、キャベツ、ブドウなどの栽培が広まったのである。

人類が狩猟、採取の生活を止めて原始的な農耕を始め、定住生活を始めたのはどの地域でも紀元前7千年ごろと考えられている。そして紀元前4千年ごろになると、農具を使って耕地を広げ、水路を掘って川の水を灌漑して穀物を栽培する本格的な農業が始まる。メソポタミアやエジプトでは大麦や小麦、インドと中国南部ではイネ、中国北部ではキビやアワを栽培した。これら多量に収穫できる穀物を貯蔵しておけば1年中の食料にできるから、食べ物を探す心配がなくなる。それによって生活に余裕ができるから人口が増えて大集落が出現し、やがてクニになり、そこを支配する王と豪族、神官、農民、奴隷などの社会階層が分かれて古代王国が誕生するのである。農業の登場によって、自分の食料は自分で生産しなければならないという制約から解放された人類は、次々と新しい生業、産業を生み出していくのである。農耕を始めたお蔭で人類は繁栄と進歩への道を歩み出すことができたのである。まさに農耕が文明を興したと言ってよい。

 古代文明はどこでも大河の流域で農耕を始めることから興った。そこには洪水で上流から運ばれてくる肥えた土壌が堆積していて、水の便もよく、穀物がよく栽培できたからである。西アジアではチグリス川とユーフラテス川に囲まれた三日月地帯に紀元前3500年ごろからメソポタミア文明が興り、少し遅れてアフリカのナイル川流域にエジプト文明が生まれた。紀元前2500年ごろにはインドでインダス河流域にインダス文明が興った。中国の黄河や長江の中流に古代文明が始まったのも紀元前4000年ごろである。 これら古代王国が成立するには食料についての三つの条件が揃うことが必要であった。まず農民が自分たちが食べるより多くの食料を生産できること、二つ目はその余剰食料を遠くまで安全に運搬して、長期間保存しておけること、そして三つ目はその余剰食料を使って交易が行えることである。古代の都市文明は農業により住民の食料を安定して確保し、余った食料を交易することで築かれたのである。

 古代ローマ帝国の広大な版図はヨーロッパ、中央アジア、北アフリカの小麦地帯をカバーしていた。ローマが消費する小麦の3分の一は約1600キロも離れた属領のエジプトから運ばれていたのである。ローマ本国には属領から運ばれてきた小麦を保存しておく巨大な貯蔵庫がいくつも整備されていた。ローマ文明の繁栄も食料の安定確保なしにはなかったのであり、そして、ローマ文明が衰退する大きな原因になったのも、十分な食料が確保できなくなったことであった。属州の小麦畑は酷使されて生産力を失い、輸送道路の治安が失われてローマへの食料輸送が途切れると、都市には猛烈な飢餓が訪れた。紀元410年、西ゴート族がローマに侵攻してきたとき、飢えに苦しんでいたローマは僅か数週間で陥落したのである。

ピカチュウ

  さん

今でこそ安定した食事は当たり前ですが、農耕社会以前はいつでも食べられるのは難しいことだったんですね。
まさに「有難い」ことだと思うと、食に対する意識を高く持たざるを得ないなと反省です。

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シロ

  さん

ブログを読んで食と社会の結び付きを感じました。
現代人の生活では、食べることに対する意識が薄れていると思います。
文明の発展の歴史をたどると、安定した食生活が人間に与える影響は
大きいと気付かされました。
日々の生活のなかで、もう少し食事を意識してみます。

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ドラミ

  さん

ローマ帝国が強かった理由は小麦地帯を持っていたからかと納得。
その後の衰退も含めて農耕の重要性が理解できました。

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ヴォルデモート卿

  さん

文明と農耕の関係性、とても興味深いです。狩猟・採取の時代からは考えられないくらい、
我々は発展しているのだと感じました。
四大文明が大河の流域で興った理由は、中学の社会の授業で聞いたような気がします。
ただ、大人になってから聞くと新鮮な感動があります。

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R2-D2

  さん

あらためて、安定した食料確保が人間の生活を支えていると理解できました。
当たり前のように食べていますが、もう少し食事を大事にしようと思います。

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アレクサンダー

  さん

ローマは食糧によって栄、食糧によって滅亡したのですね!

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しろくま

  さん

農業の発展と、文明の発展が密接に関わっていたことが非常によくわかる記事ですね。
今日に至るまでの都市の発展は、農業なしには語れないですね。

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Shozzy T.

  さん

農耕開始以降の人口の増え方がすごいですね。
全世界で500万人しかいないとか想像できないです。

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食いしん坊

  さん

古代文明と、食糧の調達は密接に結びついていたのですね。

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