東北大学における2013年度日本農芸化学会出席にあわせて、3月23日に石巻、女川方面のその後の様子を見てきました。今度で3回目です。


23日の早朝には私の乗る京都からの特急バスが到着し、そのまま仙台駅へ行きました。すぐ出る石巻行きの電車に乗りました。仙台から石巻へは2本の線があり、1本は仙石線と称して仙台から直接石巻まで向かうもので、もう1本は東北本線途中、小牛田駅で乗り換えて石巻に向かう石巻線です。

今回は仙石線で向かいました。

しかし電車は松島駅の次の高城駅までで、その先は矢本駅までJR バスでつながれていました。

高城駅から歩いて10分のところにバス停があり、そこからバスにのる不便なものでした。

矢本駅までは震災の影響で随所で線路が切れ、復旧工事中でした。

バスからは、まだ手のついていない箇所が随所に見られ、線路沿いの家屋なども震災で破壊されたままのものが多く見られました。すでに2年余たつのに、お気の毒にもまだこんな状態に驚かされました。

子供の頃、行ったことのある夏の海水浴場野蒜海岸は良好な海水浴場でしたが、この地区はとくに大きくダメージを受けたようでした。JR野蒜駅などはかなり被害を受けていて、駅の電線、電柱などまだ津波を受けたままの変形したそのままでした。復旧はここまで手が回らないのでしょう。こんなところが残っているのかと思われるような状態でした。

住民の方々にはボランテアが必要でしょう。


バスは矢本駅までゆき、そこからは石巻駅まで電車が通じていました。当日強風でしたが、途中そのため電車は止まったり、スピードを落としたりで用心深く走っていました。


石巻駅で下車、次の女川線まで1時間以上間があったので、市内を歩きました。石巻の町はかなりきれいに整理されていました。



石巻駅から女川駅までの女川線は浦宿駅(女川駅の1つ手前)まででした。そこから女川駅はわずか1駅ですが、JRバスで繋がっていました。渡波駅から浦宿駅までは前回見た通りでかなり落ち着いていて、途中の美しい万石浦などは殆ど被害はありませんでした。

浦宿駅からバスは高台にのぼりそこを越えて女川町に入って行くのですが、やはり高台から見た女川町は前回同様に箱庭のように何もありませんでした。

それでもずっと向こうの岸壁には大きな製氷施設など出来ていて、漁業には支障ないようになっていましたが、それは海に面したところでした。1メートル沈下した女川湾の岸壁はあたらに小さな仮設の岸壁も作られており、仮停泊できるようになっていて小さな漁船は数多く泊まっていました。

これは昨年にはなかった光景でした。漁民から早く船のつける岸壁をという強い要望の結果でしょう。

バスは高台にある女川第二小学校の、さらにその上の市民グランドのところが終点でした。JR女川駅はないのです。

女川の町は、現在広々としたグラウンド状の何もない広場です。そのグランドにはダンプカー用の大きな車道が縦横に走っていて、大きなダンプカーが行き来していて歩行者は危険な状況でした。

このグラウンドの海側には3-4軒の大きなビルが横倒しのままです。そのコンクリートブロックの中に赤い乗用車が挟まっているという有様でした。これなど一体どうするのでしょうか。昨年と全く変化していませんでした。

JR女川駅も全く跡形もありません。高台のところに長く横に垂れ幕が貼られ、"女川の町は俺たちが守る。 中村雅俊"、とありました。

彼は私の小学校の後輩でしょうか。

ポテト

  さん

2年の月日が経つのですね。
状況を教えて頂きありがとうございます。
被災された方の想いまでも
伝わってきます。
私たちも復興の為に出来ること、常に考えます。

返信

chaw

  さん

震災からもう2年が経ったんですね。
1日も早く通常の生活に戻れることを願っております。

返信

りゃま

  さん

地震があるといまだに恐怖を感じます。被災地に住んでいる方は、私の想像しきれないほどの恐怖や悲しみをずっと感じてきたんですよね。
学生時代は募金活動に少し参加したぐらいでしたが、これから栄養士としてできることを考えていきたいと思います。

返信

さく

  さん

もう2年も経つのに、まだまだ復旧されていない場所が
多くあるのですね…。
現地の方々はまだ苦労されているのだなと、胸が苦しくなりました。

返信

さやか

  さん

2年たってもなかなか復旧は進まないのですね・・。
まだまだボランティアの力が必要とされているということを多くの人に知ってもらいたいですね。
つらい状況でも食事によって、少しでも楽しく幸せな気持ちになっていただけると思うので、栄養士として何かできることがあるのではないかと思っています。

返信

ひいらぎ

  さん

もう2年もたつんですね・・
少しでも早く、復興が進むことを祈るばかりです。

返信

cureia

  さん

復興もまだまだ厳しい状況ですよね。
義援金などももっと活用して欲しいものです。
テレビに映るのは節目の時期だけで、短期的な報道が増えてきた風に思います。
遠くからですが、以前の街並み以上になることを願っております。

返信

Shozzy

  さん

震災がだんだん過去のものの気がしてきてしまっていますが、現実にはまだまだ復興が進んでいないんですね。
震災はまだ現在も続いていることを忘れないようにしたいです。

返信

kame

  さん

被災地をそのまま残すかどうか、ニュースになっていますよね。
父が被災地の写真を撮って見せてくれたのですが
建物が流されて何もない状態だったのが記憶に新しいです。
1日も早く復興してくれることを祈っています。

返信

オサム

  さん

日本は地震国として恐れていましたが、
地震だけでも大変なのに、津波による被害は
人命も建物や町そのものまでも
大きく奪っていくのだと言う事が
東日本大震災で知らされました。
復興が一日も早く進む事を望むとともに
この教訓を今後も起こるであろう災害に
生かしていかなければならないですね。

返信

ぺぺろんちーの

  さん

自分が育った街が跡形もなくなってしまったらと思うと、なんともいえない気持ちになってしまいます。
少しずつ復興していく街の様子を教えて頂いてありがとうございます。

返信

tomato

  さん

早急に対応が必要なところには何とか手が回っているのですね。
それだけが救いです。
駅がごっそり無くなる、3~4階立てのビルが横倒しになるとは
有りえない事ですが、津波による現実なんですね…
まだまだ1年経っても、2年経っても変わらない光景が
あるというのは、とても残念です。人手もお金も足りない
ということでしょうか。1日も早い復旧と、少しでも美しい
風景が元に戻るよう願わずにはいられません。

返信

ふー

  さん

私も被災地に足を踏み入れた時は言葉が出てきませんでした。今は少し震災の事が薄れつつありますが
現地の方はまだまだとてつもない苦労をされてるんですね。

返信

偽PT

  さん

震災から2年の月日が経っていますが、復旧されていない場所がまだいっぱいあるんですね。まだ時間がかかると思いますが、1日も早い復興を願っています。

返信

ダンボ

  さん

私の中で、少しずつ東日本大震災の悲劇が薄れていってます。
お陰様で、身近な者で被害に遭ったものがいないからでしょうね。

返信

Pig。

  さん

もう震災から2年立ちますが、きっとまだ2年なんですね。
復興までに、まだまだ時間がかかりそうですね。
私たちに何ができるのかと、考えることがあります。
いろいろな記事を読んでいて、食事がすごく大切だと感じました。

返信

ミー

  さん

いつもブログで状況をお教え頂いて
ありがとうございます。
復旧が進んでいるところもありますが、
まだまだな地域もあるのですね。
一日も早い復興を願います。

返信

ふたちゃん

  さん

私は小学校1年生の時に、阪神大震災にあいました。幼いながらも、被災1年後、2年後の街並みの復旧の早さに驚いたのを覚えています。
被害の大きさの違いもあるとは思いますが、こうも復旧に違いがでるものかと不思議でたまらなくなるときがあります。

返信

りんご

  さん

先日女川町で病院の栄養士さんをされている方の
ご講演を聴きました。
調理室も全く機能しない中で、
人と人とのつながりの大切さなどを学ばせていただきました。
一日も早い女川町の復興をお祈りしております。

返信

トーテム

  さん

俳優の中村雅俊さんですね。女川第一小学校が母校のようです。

いつか、以前よりも発展した街になるといいですね。

返信