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親戚の先祖祭が鎌倉であり、土産に京都の菓子が欲しいとの要望があった。鼓月の華という京菓子を持って行った。鼓月については大分前に学生と調べたことを思い出した。創業者の苦労話を伺ったことを思い出した。以下の様なものが出てきたので鎌倉の親戚にコピーして伝えた。ここに記録する。その他の京菓子のことは後日記述する。

京菓子處 鼓月 <本店>京都市中京区旧二条七本松 <本社工場>京都市伏見区横大路下三_ 

鼓月の職人さん、年清 茂さんにうかがった。

現在の"鼓月"ができるまでのお話から紹介しましょう。題して<素人菓子屋から始まった汗まみれの半生>

「私は、製菓会社をつくろうと思って始めたのではありません。そのかわり、(私というのは、鼓月の女社長・中西美世さんです。)苦しい体験をし、幾度か失敗もしました。ガムシャラに働きつづけるうちに私1人で始めた菓子作りの内職が、多くの人々に支えられていつのまにか発展していました。

--素人の菓子づくりと商い--

「私は当時26歳、主人と実兄を戦争で失い、残されたのは幼い長男。兄嫁には10歳を頭に5人の子どもと老母がいました。そして兄嫁の妹も戦争で未亡人で1人の子どもがいます。親しいくしていた近所の奥さんも私と同じよう境遇で、これからどう生きるかそのことだけで・・・」

「まったくの素人が内職で始めた菓子作り。こどもらが寝静まってからつくりはじめるのですから、13時間しか寝ていません。当時は、原料を仕入れるのに物々交換だったので、大事な着物をしまっていたタンスが何本か空になりました。」

当時は統制時代、仕入れる材料はすべて"ヤミ物質"である。「それで、あるとき、経済警察に捕まりまして、『靖国の妻とあろうものが何事や』とものすごう怒るんです。でも言うたら材料の仕入れが止まるんです。だから絶対口を割らなかったんです。言わないから、しまいには、『この野郎、こんなしぶとい女は見たことがない』言うて『とにかくもう明日から子供連れてくるな。ブタ箱に入ってもらうからそのつもりで家の中を整理してこい』と言う訳です。結局最後は、裁判所へ回されました。その時の判事さんでしょうか、いまだにその思い出があるんです。『あんたは運が悪かったな。これしなけりゃ子供は食べさしていけないわな。これからは気をつけなさいな』と。『かわいそうに、よくやってきたな』と言われたとき、もう涙が出て、涙が出て、どうにも止めようがなかった」 "がむしゃらに働く_という姿がしみじみと感じられます。女手で子供達の養い、生活していくことは、並たいていのことではないでしょう。今では"女性の進出が盛んですが、当時は女性の立場も弱かったのではないでしょうか。素人が内職で始めた菓子作り、生きていくための手段として、力強さが表れています。警察に捕まった時も、頑固として口を割らなかった強さ、なんとしても、成功させなければといういきごみの中に、やりきれないくらいの苦しい体験をされたことと思います。

--看板をあげる--

 工場は、自宅を改造した小さな作業所であった。公式に「中西菓舗」という看板をあげ、小売店をオープンしたのは昭和26年、女ばかりだが、そのころの陣容は20名になっていた。昭和28年、中西製菓株式会社として会社組織に切り替え、どうにか工場らしいものを建て、ようやくお菓子屋として正式発足した。(同32年㈱鼓月と改称)

 「出来上がった商品の一個一個には商品イメージと企業イメージを売り込むためにネームをいれて新製品として売り出しました。京都の市場調査から始め、京菓子の名でたる老舗の商品および経済姿勢、沿革などを調査し、どのようにして、これらの有力老舗の立ち並ぶ商圏で商売を成り立たすべきか、と日夜考えました末に、今までは、子供の成長と食べるためにやってきた姿勢から、企業としてさらに企業人としての考え方をとる構えに変わり、やるからには京都一流の菓子屋になるべきだとの信念を得ました。」

--中年の手習いを始める--

「こうして、仕事のほうも見よう見まねでどうにかやってまいりましてが、そのうちに経済も安定してきて、甘ければ喜ばれていた時代から本物志向の時代へ変わって、腕に物を言わせ、それをいかに上手に作り、いかに美味しく食べていただくか、プロの技術・技巧が必要な時代に一変してきました。このとき始めて素人の悲しさとゆうものをつくづくと痛感させられました。プロのお菓子づくりは、どれ一つとってもむずかしいことばかりで、毎日毎日が困難と失敗の連続でした。技術の基本が皆無の素人がやってきた仕事ですから、今までのやり方をいくら繰り返していっても、このままの方法ではとうてい埒があかない。さりとて、教えてもらう人もないし・・・。とうとう困り果ててしまって・・・。あげくの果ては、同業者に家伝の製法を尋ねるなどはタブーと知りつつ、あつかましと思いましたが、最後の頼みの綱と縋る思いでやっと尋ねあてたお菓子屋さんに、無理を承知で教えを懇願しました。しかし、父子相伝でやってきた家業の技術は、なかなか教えてもらえませんでした。

 『自分と何十年もかかって、どれほどの苦労をして職人に教えてもらったか。長年辛苦の研究を積み重ねて修得してきたか。人様がそれほど苦労してきたものを、同業者のところへ行ってそう簡単に教えてもらえるもんではない。習いたかったら盗ったらどうや。技術は教えられるものではない。体で盗るんや』

 と、教えられました。」

「作業衣と弁当持参で教えを乞いに日参して尋ね回り、夜は帰ってその通りもう一度やってみる。やってみても同じ製品はなかなか出来ず、幾度も幾度も失敗を繰り返しました。遂には、材料を買うお金もなく、もうこれが限り、最後の試作と思って作ってみたその最後に、私が思っていた通りの商品が出来上がりました。そのときは、歓びが思わず声になって出ました。この時です、人はあきらめずに絶えず研究と努力を続けてゆけば"道は開かれる"とゆう確信とともに、その精神で最後までがんばり抜くのだということを肝に銘じました。」

 なるほど、このような経験を乗り越えて、現在に至るのでしょう。では、その現在の鼓月さんの姿は?私たちの質問に答えていただきました。

uestion, 方針・家訓などを聞かせください。

nswer: お菓子は、生きものです。長い寿命のものもあれば、一日でその命を失ってしまうのもあります。又、お菓子作りは"これで良い"というもはなく毎日、"進歩"しているのです。昔からの原料・製造工程を生かし、新しく生まれる原料を加え、改良して今までより少しどもおいしい、喜んでもらえる菓子を世に送り出すのが役目だと思います。伝統的な味に、想像的・夢心を加え、洗練された味が引き出すことを心がけています。

,機械や着色の使用はどうですか?

:味が変わる所までは手で行い、味が変わらない所からは機械に頼っています。

着色は、いろいろな規制があるのですが、やはり、野菜・茶などの天然のものからの色付けを心がけています。

,新しい和菓子が商品化されるまでの過程を教えてください。

:一概には言えません。材料が決まっていて、デザイン化して作られるもの、反対にデザインを考慮し、材料を選び形作っていくものなどいろいろなケースがあります。

例えば、私どもの重点をおいている商品に、"千寿せんべい_という菓子があります。この菓子は、10年ぐらい前から作り始めたもので、日持ちもよく、引出物などの目出たいお菓子として好評ですが、ギザギザ模様は波を、中央の~このような模様は鶴を表現しています。

,店の重点をおかれている商品は何ですか?又、その商品を作り始めたきっかけを教えてください

:先ほどお話しました千寿せんべいもそうですが、他に華という商品があります。これは、戦後の食生活の変遷を丹念に調べ、コーヒーや紅茶を普及し、ミルク、バターが若い人達に喜ばれることがわかりまして、そこで若い人に喜ばれる菓子を作り出そうとして誕生しました。

  
  
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