日本列島は古くから多くの果物に恵まれていた。三内丸山の縄文遺跡にはすでに栗の木を栽培していた形跡があるように、栗、胡桃、ドングリなど木の実は縄文人や弥生人の貴重な食料であった。邪馬台国の遺跡ではないかと考えられている纏向遺跡からは数百個の桃の核が出土している。

平安時代の書物である和名類聚抄に記されている果物はザクロ、ナシ、コウジ、ハシバミ、グミ、アンズ、リンゴ、ヤマモモ、モモ、スモモ、ナツメ、タチバナ、ユズ、ウメ、カキ、ビワなど現在と変わりがない。室町時代、京都の医師黒川道佑が記した地誌、雍州府志には、京都近郊で産する果物は揚梅、甜瓜、桃、梅、李、杏子、梨、葡萄、林檎、蜜柑、柚子,柑子、橙、栗、筆柿、渋抜き柿であると記されている。当時、栽培されていた果物は今とそれほど変わっていない。

江戸時代の会席料理では最後に栗、胡桃、榧などの堅果を木菓子、桃や梨、棗、柑子などの水気の多い果実を水菓子として供し、日常には西瓜、マクワウリなど甘い瓜を食べていたようである。江戸時代の果物は今のように甘いものではなく、硬く、酸っぱいものが多かった。農家の庭に植えられていた柿はほとんどが渋柿であり干し柿にしていた。紀州で栽培される温州ミカンは甘いので人気があり、最盛期には1籠百―2百個入りで30万籠も消費されたという。江戸の住民一人当たりにすると30個である。豪商、紀伊国屋文左衛門は紀州名物の蜜柑を船に積み、初冬の荒海を乗り切って江戸に運んで巨富を得たという。今のように果物が甘くなったのは品種改良が進んだ幕末から明治以降のことである。

現在、日本の果物の生産量は温州ミカンとリンゴが群を抜いて多く、次いで西瓜、ナシ、柿の順であるい。これまで日本人が最も親しんできた果物はミカンであろう。蜜柑の生産量が最も多かったのは昭和50年であり、一人当たり、327個も食べていたが、今では4分の一1以下に激減している。リンゴもまた同じように減少し、代わってバナナが最も多く消費されるようになった。30年前ぐらいまでは家族が食後に炬燵を囲み、談笑しながら蜜柑を食べていたのだから、蜜柑の消費が減るのは食卓の団欒が少なくなった昨今の食事風景に通じるものがある。

 最近の消費者が好む果物の1位はイチゴ、2位はモモ、3位はメロンであり以下、蜜柑、リンゴ、カキ、ナシ、すいか、バナナの順である。日本の果物は種類も多く、形状、品質ともに他国の追随を許さないのであるが、自給率は僅か38%に過ぎない。消費者がバナナ、オレンジ、パイナップルなど輸入果物を欲しがるからである。因みに、外国では進物用の果物を扱う専門店を見たことがない。マスクメロンや大粒イチゴ、完熟マンゴーなど高価な果物を贈答する習慣は日本独特のものなのである。

ところで、日本人が1日に食べる果物は昭和50年頃に比べれば1割ほど減って144グラムであり、世界平均の200グラムに比べてずいぶん少ない。イタリアでは400グラム、イギリス、フランス、アメリカでも300グラムを食べている。欧米では果物をジュース、ジャムなどに加工して食事に取り込んでいるが、日本では食後のデザート扱いにしているからであろうか。しかも、若い女性は果糖が多い果物はダイエットにならないと敬遠するのである。