江戸時代までは町や街道には食事ができる店がなかったから、遠くに外出するときには必ず弁当を持って行かねばならなかった。古くは焼き米か糒、そして握り飯と漬物、味噌などを竹の皮、藁苞などに包んで持って出たのである。

 これを弁当と呼ぶようになったのは安土桃山時代からである。弁当とは当座の用を足す便利なものという意味である。江戸時代になると摘み草や花見などに、あるいは芝居見物に玉子焼きやかまぼこなどご馳走を詰めた重箱と酒を持って出かけた。江戸の花見の名所は隅田川の堤や、飛鳥山、御殿山などである。古典落語「長屋の花見」は貧乏長屋の住人がかまぼこ代わりの大根と玉子焼き代わりの沢庵、それに薄めた番茶を酒代わりにして花見を楽しむという噺である。

料理を詰める重箱、料理を取り分ける小皿、酒壜,盃などをコンパクトにまとめた提重には美しい蒔絵を施すなど趣向を凝らした。折箱に俵型に仕切ったご飯と魚の照り焼きや玉子焼き、かまぼこ、煮豆などをこまごまと詰め合わせた弁当を幕の内弁当と呼ぶのは芝居の幕間に食べたからだと言われている。芝居見物の客に出前する豪華な幕の内弁当は100文であったと伝えられている。

江戸城に出仕する諸大名や宿直の侍などは弁当を作って持参していた。時代が変わって明治、大正時代になると勤め人や学童、生徒が弁当を持って職場や学校に通った。腰に弁当包みをぶら下げて通うから勤め人や下級官吏は「腰弁」とも呼ばれていた。おかずは塩鮭や海苔の佃煮などが多く、戦時中にはご飯の真ん中に梅干しを置いた日の丸弁当もあった。

弁当は本来、家で用意するものであり、家庭の食事の延長であったのだが、出先で弁当を買うようになった始まりは駅弁である。駅弁の第一号は明治18年、東北線の宇都宮駅で売り出された。梅干し入りの握り飯2個と沢庵を竹の皮に包んだものが5銭であった。信越線、横川駅の名物駅弁「峠の釜めし」が売り出されたのは昭和33年である。列車の窓を開けて売り子を呼び止め駅弁を買うのは旅の楽しみであったが、新幹線や特急が増えて停車時間が短くなるとそれもできなくなった。今では空港で売られている弁当が空弁と呼ばれている。

全国にはおよそ3000種類の駅弁があるが、どういう訳かその多くはご飯にご当地特産の海鮮物や牛肉、野菜を添えた和食系である。例えば、鰊みがき弁当(函館駅)、はたはた酢飯(秋田駅)焼きはま丼(千葉駅)すき焼き弁当(松阪駅)かつおたたき弁当(高知駅)小倉かしわ飯(小倉駅)などである。東京駅には数十種類の駅弁を取りそろえた店があり1日に2万個の駅弁が売れるが、その多くは旅行に持って行くのではなく職場や家に持ち帰って食べられている。その外、給食弁当、宅配弁当、持ち帰り弁当、コンビニ弁当などが忙しいサラリーマン、食事作りが面倒になった独り暮らしの高齢者などに重宝されている。 江戸の花見弁当、芝居弁当から現代の駅弁や持ち帰り弁当に至るまで、さまざまに工夫を凝らした弁当は日本独特の食文化であると言ってよい。