日本人の誰もが朝食、昼食、夕食と一日に三度食事をするようになったのは江戸時代からである。それまで奈良時代からずっと朝食と夕食の二食で過ごしていたのは、食料が十分になかったからだと考えてよい。平和が長く続いた江戸時代には農業、漁業が大きく発展し、陸海の交通網が全国規模で整備されたので、各地の産物が江戸や大坂、京都などの都市に集まり、商工業が著しく発達して富裕な町人衆が生まれた。一般民衆の暮らしも古代、中世に比べれば格段に豊かになり、食べることにそれほど苦労をすることがなくなった。これまでは粗末な食事で我慢していた職人、小商人、そして農民に食べることを楽しむ余裕ができたのである。このことは今日ならば当たり前なのであるが、空腹を満たすだけの食物すらも十分になかった民衆にとっては画期的な出来事なのであった。
江戸は徳川幕府が新しく建設した都市である。18世紀末の寛政年間には人口が120万人を超える世界一の巨大な消費都市であったが、そこに暮らす人たちはどのような食事をしていたのであろうか。特に興味深いのは人口の過半数を占めていた職人や小商人などの食生活である。
町人の7割は長屋に暮らしていた。長屋は裏通りに面した共同住宅である。1棟の建物を壁で数軒に仕切った住居であり、1軒の広さは狭いものは間口が九尺、奥行き二間であった。9尺に3尺の土間と4畳半の居間兼寝室があるだけの住まいである。住人の多くは職人や行商人であり、店賃は1カ月1000文、現在価格に直すと約2万円である。共用の井戸と便所が屋外にあり、炊事道具は土間にある竈と流しと水甕、そして米櫃、鍋、釜、包丁、まな板、擂り鉢、笊と夫婦の箱膳である。箱膳は箱形になっている膳のことで、自分用の飯茶碗、汁椀、皿と箸を納めておき、食事をする時には箱の蓋を裏返して食器を載せるのである。
江戸中期、文政年間(1818-1830)に栗原柳庵が記した「文政漫録」から長屋の住民の食生活を復元してみるとしよう。長屋に暮らす大工には妻と小児一人がいる。大工は職人の中では最も高い日当、540文を稼ぐが、雨が降って働けない日もあるので平均して1日を450文で暮らすことになる。この中から米1升を90文、野菜や魚、味噌、醤油を100文で買うのである。1文を20円として現在価格に換算すると、1日の収入は9000円、米代は1升(1,5キログラム)、1800円になる。当時の米の値段は現在の価格、1キログラム300円に比べると4倍も高かった。天秤棒の両端に魚、野菜、豆腐などを入れた籠を担ぎ、横丁から横町へ売り歩く振り売り人だと稼ぎは1日、300文ぐらいだから、稼ぎの6割が食べることに消えてしまう。
大工一家が1日100文で買える食材を考えてみよう。当時の物価は、大根10本72文、菜もの、1把6文、たくあん、1本16文、豆腐、1丁60文,油揚げ、1枚2文、納豆、1包4文、卵、1個10文、醬油、1升60文、鰯、10匹120文、鯖、1匹300文、鯛、1匹1500文,蛤は殻つきで1升、20文である。野菜は安く、魚介は高かったので、おかずは野菜中心で作られた。朝食は炊きたての飯に味噌汁と納豆、漬物、昼と夜は冷や飯、おかずは野菜の煮物、時には豆腐、油揚げか焼き魚などであったろう。それでも朝昼夕と三度、白いご飯を食べられるようになったのはこの時代からのことなのである。
表通りの商家では、妻子のほかに住み込みの番頭、小僧、下女などを合わせて8人か10人で暮らしている。1年間に買入れる飯米は14石4斗、16両、1日にすると4升、である。そのほかの食費は18両ほどであるから、1日にすると326文である。これで10人が食べるとなると、長屋に暮らす大工一家と変わることのない粗末な食事であったろう。大工一家も商人一家も一人あたり、1日に白米約4合、600グラムを食べているから、それだけで2100キロカロリーが摂れるが、副食は野菜と漬物が主なものであるから必要カロリーの9割ほどをご飯で摂っていたことになる。そのような粗末な内容の食事をしていてもエンゲル係数は40%を超えている。
