日本の神話では稲は神より授けられたとされている。「太陽神である天照大神が皇孫、瓊瓊杵尊を豊葦原の瑞穂の国に降臨させるに際して稲穂を持参させた」のであるから、その子孫である天皇家が司る祭祀儀礼の中では、収穫した米を神に捧げて豊作を感謝する新嘗祭が最も重要なのである。稲は収量の良い作物であり、一粒播けば弥生時代でも数十粒の米が収穫できたであろう。品種改良が進んだ現代であればたった一株(三粒播き)から二千粒の米が採れ、茶碗に半分のご飯になる。日本列島という狭い土地で多くの人が暮らしてゆくには稲を栽培して、米を主食にするのが一番良い方法であった。

 そして、多量に収穫できる米を統治者が管理してクニの収入にする社会構造が生まれた。稲作を本格的に行うようになった古墳時代の人口は約5百万人と推定され、狩猟採取で暮らしていた縄文時代に比べて数十倍に増えている。水田稲作によって食料の安定した生産体制を整えたことが古代国家成立の基になったのである。華やかな天平文化が開花した奈良の都の経済を支えたのは米であった。米を十分に生産することは国の最重要事になり、稲作は国家の税収を賄う重要な産業として国を挙げて推進された。農民が酒を飲むことを禁じる禁酒令や牛馬を殺すことを禁じる殺生禁止令がたびたび公布されたのは、稲作は神聖なものであり、農繁期に酒を飲んだり肉を食べたりすると、稲作に失敗すると信じられていたからである。

 孝徳天皇の大化2年(646年)、大化の改新によって、全ての田畑、領民を公有にする公地公民制度が発足し、公民には口分田を支給する班田収授法が実施された。それまでは王族、豪族が耕地と農民を私有していたのを改めたのである。公民男子には2反、女子には1反120歩の水田を支給し、収穫した米を租(田租)として物納させることになった。奈良時代の全国の水田面積は70万町歩であったから、収穫できる米は約470万石、70万トンぐらいあり、国庫に納められる田租米は約7万トン、現在ならば6千億円ぐらいの価値があった。徳川幕府は米を通貨とする(こく)高制(だかせい)を採用していた。全国の水田,畑、屋敷地など全ての土地の経済価値をそこから取れる米の石数で見積もり、それを基にして年貢米を徴収して幕府や諸藩の財源にしていたのである。全国の総石高は3000万石と言われたが、江戸後期の総耕地面積は296万町歩、そのうち水田は164万町歩であったから、実際に収穫できた米は約2400万石、360万トンであったろう。米1石は当時、1両で売買されていたから、1両を現在の貨幣価値に換算して約13万円とすると米の総生産額は3兆円になる。年貢をその4割とすれば1兆2千億円が幕府と諸藩の収入になったのである。奈良時代の班田収授制に始まった米の収穫を経済基盤とする政治体制はその後、中世の荘園制度、江戸時代の石高制を経て明治維新になるまで1300年間続いた。

 このように日本の農業は水田稲作を中心に発達し、収穫した米が人々の主食になり、国の財源にもなってきたことは日本人の思想形成に大きな影響を与えることになった。特に、水田稲作に伴う特殊な作業形態は長い年月にわたって日本人の生活様式やものの考え方に大きな影響を及ぼすことになった。その関係が最も明らかに認められるのが江戸時代である。江戸時代、幕府や諸藩の財源は石高制によって徴収する年貢米であった。この時代の年貢は五公五民か六公四民という厳しいものであったが、それが可能であったのは米の収穫量が播種量の数十倍もあったからである。同じころのヨーロッパでは小麦の収穫量は播種量のせいぜい数倍であったから、収穫の半分を取り上げれば農民は死に絶えたに違いない。「農は国の本なり」という日本独自の農本主義の思想は、東南アジアの米作り地帯、その中でも収量が飛びぬけて多い日本の米作り農業から生まれたと言ってよい。

しかし、年貢米を多く徴収するには、限られた水田からできるだけ多量の収穫を挙げることが必要であった。そこで、できるだけ手間をかけて一粒でも多く米を収穫する集約農法が行われた。これまで1尺掘っていた耕地を1尺5寸に掘り下げて僅かでも収穫を増やすよう、農民たちに朝早くから夜遅くまでの過酷な労働が課せられた。労働生産性を無視してかかる重労働に耐えさせる拠りどころとして、農耕は美徳であるとみなす思想が必要になった。まず、農業は国の基であると美化して、それに従事するのは人間の営みの中で最も尊い行為であるという道徳律を農民に押し付けたのである。これに対してヨーロッパでは農家の耕地面積が日本より数十倍広いから、人力だけで耕作するには限界があり、もともと収量の少ない麦作農業であるから必要以上の人力を投入しても無駄であった。だから、日本のようなタイプの勤労の思想は生まれなかった。

 これら自然発生的な農本主義とは別に、大正から昭和初期には工業化が進み、農村が荒廃、疲弊していく状況に危機感を抱き、農業と農村社会の維持存続を主張する農本主義運動が興った。この新しい農本主義は江戸時代の農本思想とはその成立の動機が異なるが、農業が国のために重要であるという理念には変わるところがなかった。しかし、どちらにもせよ、これら農本主義の思想は、第2次大戦後の高度経済成長の中で完全に失われた。狭い国土で戦後に急増した人口を養っていくには、工業立国、貿易立国の道を歩まなければならなくなったからである。そして、農耕で培った勤勉の精神を生かして、工業生産に邁進し、一時は世界第2のGDPを誇る経済大国に成長したのである。その陰で、国内農業は衰退し、農業生産額はGDPの僅か2%弱を占めるにすぎなくなり、それと共に農業は国の基であると考える農本主義も失われたのである。

ニョロモ

  さん

水田って、日本の美意識だとか衛生観念の寄与に貢献している気がします
狭いのに大量の収穫があるのもいいですよね

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ハクモクレン

  さん

自然物が贈り物だというのは、世界中で共通ですね。
ただ、あまりに食べ物が溢れすぎて、現代では神秘性はないかも知れません

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しろくま

  さん

日本独自の農本主義が、お米自体の収穫量の多さから生まれたことは興味深いですね。
ヨーロッパだと、納めなければならない収穫量が日本とは全然違っていたわけですね。

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