ヨーロッパにおける主食はパン食でなかったというと意外に思うかもしれない。ヨーロッパでは穀物栽培と家畜飼育が一体になっていて、どちらの比重が大きいかを決めかねる状態であったから、日本のように米飯が主食、魚介と野菜が副食という区別がない。日本では戦前まで摂取する食物カロリーの80%を米、麦、芋などから摂取していたが、ヨーロッパ諸国では昔から穀物依存率は50%余りで、残りは肉類と乳製品に頼っていたから、どちらが主食でどちらが副食というはっきりとした区別がないのである。 しかも、ヨーロッパでは誰もが昔からパンを食べていたわけではない。麦の生産量が少ないヨーローロッパでは、上層階級でなければパンは食べられなかった。農民の常食は麦をひき割って牛乳、チーズ、野菜と煮込んだブイイという粥であり、嵩の低いパンにして食べるのは贅沢であった。農業革命によって麦の生産が増えた11―12世紀ごろから次第にパンを食べるようになったのである。

 しかし、パンを作るには、個々の農家が籾摺り、製粉、パン焼きまでのすべての作業を自分の家で行うのではない。製粉用の水車やパン焼き竈は領主所有のものを借りるか、村の共同のものを使って行うのである。米であれば粥にしようと、飯にしようとその農家の自由であるが、パンを焼くには、村落民との協力が必要であった。 家族や家庭を超えた村落共同体意識、社会意識が必要とされるのはパン焼きだけではなかった。原料である麦の栽培も村落共同で行わなければならなかった。ヨーロッパは緯度が高く、冷涼な乾燥地帯であるから農耕には適していない。麦を栽培しても収量は播種量の数倍しか収穫できない。その上,連作による地力の低下を防ぐため、麦を栽培した後は数年間休耕地にして家畜を放牧し、その糞が肥料になって地力が回復するのを待たねばならなかった。そこで耕地を少しでも有効に利用するために、11、12世紀ごろから三圃制の輪作をするようになった。耕地を3区画に分け、春播き小麦、秋播き小麦、そしてクローバや蕪を3年周期で輪作するのである。休耕地にクローバを栽培すれば地力が回復し、蕪を栽培すれば家畜の冬の餌になったのである。

 このような三圃制輪作は個々の農家が自分の狭い耕地だけで実施しても効率的でないから、村落の耕地全部を寄せ集めて3区画に分けて、村落全員で実施するのである。個々の農家は割り当てられた耕地を分担して、村で指定された作物を栽培する。種を播くのも、収穫するのも、決められた日に仲間と一緒に行うのである。個々の農家の自由裁量は認められなかったが、その代りに安定した収穫が得られたから、村落共同体への帰属意識が強くなるのは当然である。

 穀物栽培に適していないヨーロッパで、少ないながらもある程度の穀物生産量を確保してパンを食べるためには、このように村の仲間と協力することが欠かせなかった。そのためには個々の農家の主体性や独立性は犠牲になっても仕方がなかった。だから、日本の村には見られない強い村落共同体意識が生まれたのである。日本にも村落共同体があって水利灌漑作業や共同林の手入れは部落民共同で行っていたが、個々の農家の耕作には介入しなかった。だから、個々の農家の独立性が高く、家族意識が強くなったことは先に述べたとおりである。 ヨーロッパ人の強い社会共同体意識はこのような厳しい穀物栽培の実態から生まれたものであり、ヨーロッパの社会形成に大きな役割を果たした。肉食を是認する必要から生まれた人間中心主義の思想が強い階層意識を生んだのと同じである。厳しい穀物栽培から生まれた共同体意識と家畜飼育から生まれた階層意識は、お互いにからみ合ってヨーロッパ人の社会と思想の形成につながっているのである。 

 パン食から生まれた共同体意識は、中世都市においても遺憾なく発揮された。堅固な都市壁に守られて暮らす都市の住民は、領主とその家臣を除いて、すべて市民としての平等な権利を持ち、徴兵、納税の義務を果たした。ただ、市民が享受できたのは都市共同体のメンバーとしての自由であって、自分勝手な行動はできなかった。市民生活には守らなければならない共同体の定めがあったのである。そのことは農民が村落共同体のために個人の自由を犠牲にしていたのと同じである。まさに中世都市における強い市民意識は、農村で培われた村落共同体意識の拡大発展に他ならなかった。パン食をすることから生まれた強固な社会共同体意識がその後 発展して近代ヨーロッパ人の強固な市民意識を生むことになるのである。

村上光信

  さん

大変興味深く拝読させていただきました。
私は退職前は沖縄の公立名桜大学でWHOのウエルネスを
テーマ研究していました。その当時から日本の水道水の塩素
被害に興味を持っていました。
塩素除去した野菜や料理だと本当においしいです。
塩素除去と食生活について教えていただけるとありがたいです。

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