動物は空腹を満たそうとして餌を食べる。しかし、同じ動物であっても、人間はただ食欲を満たすだけではなく、常に何かを考えて食べていることが多い。これは食べてよいものか、どのように食べるのがよいか、何のために食べるのか、などと考えるのである。人間は大脳を働かして食べる、あるいは文化を食べていると言われるのはこのことである。そうであるとするならば、私たちの先祖は、これまで食べることについてどのようなことを考えてきたのであろうか。

 食べることは生理的な欲求を満たす日常の行為であるから、そのことについて何か考えることがあるとしても、それはごく簡単なことである。食べ物や食べることに対する古代の人々の考えは、毎日の生活の中から自然に生まれたものであるか、あるいは宗教の定めに従ってのことであることが多い。しかし、人間が食べることについて考えることは、社会の発展と共に複雑になってきたのである。そこで、先人たちが食べることについて考えてきたことを、飢餓の時代、節食禁欲の時代、美食願望の時代と、豊食・飽食の現代に分けて歴史的に観察してみると、それぞれの時代 あるいはその地域に生きた人々ならではの「何を食べ、何を食べないかという選択や禁忌」、「どのように食べるべきかという規範や倫理、価値観」などがあったことが判る。

 このように、人々が食べ物や食べることについて考えてきたことを「食の思想」と呼べるとするならば、もっとも原始的な食の思想は神人共食という古代の人々の食べ物に対する信仰である。世界のほとんどの地域には神聖な食べ物とそれを尊ぶ食習慣があった。神や先祖の霊と親しく交わるために食べる神聖な食べ物が定められていたのである。人々の主食となる作物は必ずといってよいほど神聖な食べ物に選ばれ、神が宿る神聖な作物を食べることは即、神を祀ることであると考えられていた。

 日本では稲が神聖視されてきた。日本神話では、天照大神が皇孫、瓊瓊(にに)(ぎの)(みこと)を豊葦原の瑞穂の国に降臨させるに際して稲穂を授けたと伝えられている。その子孫である天皇家では、収穫された米を神に捧げて豊作を感謝する新嘗祭をもっとも大切な祭祀儀礼として行っているのはそのためである。古代の農耕生活は台風、洪水、旱魃など自然の脅威に絶えず脅かされていたから、自然の現象を支配して豊かな稔りを授けてくれる超自然的存在、つまり神への畏敬の念が生まれる。そこで、大雨や台風などの自然災害に遭うことなく、無事に豊作を迎えられるように、自然の神を祭る祭祀が行われた。神前に米と米酒を供え、祝詞を唱えて神の加護を願う神事が済むと、神酒と供物のお下がりを全員が分け合って飲み食いする直会(なおらい)を行った。神のご守護を頂くために神様と人とが一緒に飲食する「神人共食」という行事が行われるのである。古代の人々にとって、食べものは神の力を頂く媒介であるとみなされていた。人々は神に供えた酒のお下がりを飲んで、心を高ぶらせ神のお指図を訊こうとした。酒を飲むことで非日常の心理状態になり、神と一体になれると信じたのである。我が国で、今でも季節ごとの年中行事や人生の節目に行われる儀式には、豊年万作、無病息災、夫婦和合、多産豊穣、子孫繁栄などを祈る料理を用意して神前に供える。正月の雑煮やおせち料理、節分の鰯と豆、中秋の月見団子、出産祝いの産飯、節句の菱餅や柏餅などには、どれも神人共食の願いが込められている。

 トウモロコシを主食とする文化圏ではトウモロコシが神聖視されていた。メキシコの高地民族は、トウモロコシは太陽の贈り物であり、太陽の息子が人間に与え、太陽の娘が栽培の仕方を教えたのだと信じている。だから、トウモロコシを料理する前には、必ずトウモロコシの神を慰撫する儀式を行う。中近東の乾燥地帯では麦が主要な作物であり、麦から作るパンとビールが神聖視されていた。仲間と一緒に焼いたパン、それを溶かしたビールを神と分け合って食べれば、神の御心に適うと考えられていた。紀元前3500年頃、シュメール人が建設したメソポタミアの都市には必ず町の中央に守護神の神殿があり、住民は神殿にパンとビールを供えて祈り、その後でビールを飲む宴会を行っていた。紀元前1200年頃、古代エジプトの中王国を統治したラムセス三世は、アモン神の神殿に31年の治世を通じて実に46万壺のビールを供物として捧げたと伝えられている。

 狩猟民族が行う生贄(いけにえ)の儀式も神人共食の一種である。狩の獲物を山の神に供えて、そのお下がりを解体して仲間で分かち合い、神の恵みに感謝するのである。キリスト教会のミサで行われるパンと葡萄酒の聖餐も生贄の儀式であると解釈できる。イエスの肉と血を象徴するパンと葡萄酒を頂くことで、神とイエスにつながる紐帯を確認するのである。西欧の文化を支えてきたキリスト教では、パンに特別の宗教的意味づけをしている。例えば、新約聖書に「人はパンのみにて生きるにあらず」、「わたしが命のパンである。このパンを食べるならばその人は永遠に生きる」とあるように、最後の晩餐でイエス・キリストが弟子たちに分け与えたパンと葡萄酒を、ミサの聖餐に頂いて神の許しを分かち合う。キリスト教徒にとってパンを食べて生きることは、イエス・キリストと共に生きるという信仰を意味している。