世界の各地には人々が習慣的に食用にしないものがたくさんある。たとえ、宗教で禁止されていなくても、多くの人が食べる気にならないものもある。そこには、社会全体に共通した、あるいはその社会の特定の階層に固有の食文化の規範があるからであり、それがいくつかの食べ物に特別の価値、あるいは禁忌感を与えることになる。それが食のタブーである。食のタブーの対象になる食べものは、動物の肉であることが多い。ヒンズー教徒が牛肉を食べず、イスラム教徒が豚肉を食べないように、特定の家畜の肉に対する忌避感はいったいどういうことから起こってきたのであろうか。
食のタブーは宗教の教えから生じたものが多く、イスラム教のコーランには豚肉を食べてはならないと定められており、ヒンズー教では神々が宿る聖牛を食べると輪廻転生の最下段に堕ちると教えている。しかしながらよく考察してみると、タブーの原因をすべて宗教に求めるのは無理がある。宗教と深いつながりがあるにしても、それだけがタブーのすべての理由だとはとても思えない。そもそも、触れてはならない、見てもいけないとされているものがタブーであると一般的には考えられているが、しかし、そのようなものが生活の中に残っているであろうか。あえて何かを禁じているということは、それがどこにでも存在し続けているということである。そもそも誰もが行いそうもないこと、あるいは存在していないものがタブーの対象になるはずがない。食のタブーは生活に必要な知恵、あるいは判断であると考えることもできるのである。
ヒンズー教徒が牛肉を食べず、ユダヤ教徒とイスラム教徒が豚肉を忌み嫌うようなったのは宗教上の規範からだけではなく、その文化圏の生活においては牛あるいは豚を食べることを躊躇する生活上の理由があったからではなかろうか。その地域の人間にとって有用な動物は食べてはならないタブーの対象になり、役に立たぬ動物は食用にされる、というのが常識的な解釈だろう。タブーになる食物はその社会における生活の在り方につながりがあると考えてもよい。これらのことを、代表的な食のタブーについて説明してみることにする。
ヒンズー教徒の牛肉禁忌
インドの支配的宗教であるヒンズー教の信徒は牛肉を食べない。ところが、彼らの信奉するマヌ法典では鳥、豚、魚、そしてラクダ以外の家畜を食べることを禁じているが、牛肉を食べることを特に厳しく禁止している訳ではない。ヒンズー教徒の食生活を律しているのは浄、不浄観であるが、それは「殺生」「不殺生」という観念である。「創造主、プラジャーパティはこの全世界を生命の食物として創造し・・・・食べる者及び食せられる者の両者を造りたればなり」とある。誰が食ベるのか、誰が食べられるのかは輪廻転生、因果応報の結果であり、今、食べているあなたもいずれ食べられる身になると教えている。菜食が清浄なものとされているのは、それが不殺生の料理であるからであり、バターやヨーグルトなど乳製品も殺生をしたものでないから食することを許されるのである。
しかし、牛を殺生することを特に嫌うのは何故であろうか。ヒンズー教の復讐の神、シヴァは雄牛に乗って天を駆ける姿で、慈悲の神、クリシュナは牛飼いとして描かれているように、牛を崇拝することがヒンズー教の教義の中心に位置づけられているからである。聖なる牛には3億3千万の神々が宿っているから、牛を殺す者の魂は輪廻転生の最下層に堕ちると信じられている。だから、大多数のインド人は公然とは牛肉を食べない。特に最高位のカーストであるブラーマン(祭司階級)は完全な菜食を守っていて、卵も食べない。それで、現在、インドには世界最多の1億8千万頭もの牛が大切に飼われているのである。
だが、インドではなぜ牛が神聖なものとして信仰されるようになったのであろうか、なぜ牛であって豚や馬ではないのか、それが宗教上の恣意的な選択であるとは思えない理由をインドの農耕の在り方に見出すことができる。ヒンズー教の最古の聖典、リグ・ヴェーダーは紀元前1800年頃、北インドに居住していた牛を飼う農耕民、ヴェーダー人の神々に対する讃歌である。彼らは宗教儀礼として牛を犠牲に捧げていたが、やがて農耕をするようになると牛を殺して捧げることを止めて、ミルクを供物にするように変わった。粗末な飼料で飼え、犂を引く力の強いこぶ牛を殺して食べることは得策でないという実際的な考えが、聖牛信仰に結びついたのではなかろうか。インド人にとって雌牛はミルクを与えてくれるだけでなく、農耕に役立つ友達なのであり、ほかの動物で代えることができない。山羊、羊、豚は体格が小さく、力が弱いから農耕に仕えない。ラクダは雨期の泥田での農耕に使えず、馬やろば は草や藁を多く食べ、家庭のごみでは飼えない。牛は今でもインドの気候と土壌に適したもっとも有用な農耕用動物なのである。中国でも牛を農耕に利用していたから、伝統的な中国料理には牛肉を使わず、もっぱら豚肉を使ってきた。中国で牛を食べるようになったのは、遊牧民族に支配された元の時代以降のことなのである。
イスラム教徒、ユダヤ教徒の豚肉禁忌
豚肉を食べてはならないと定めることは、食肉を効率よく調達するということから考えると極めて非合理的なことである。豚は生育が早く飼料を肉に変えるにはもっとも効率がよい家畜であり、しかも多産である。それなのに、古代イスラエルの神は豚肉を食べることを、それだけでなく豚に触れることさえ禁じたのであろうか。 イスラムの聖典、コーランには「あなた方に禁じられたものは死肉、流れる血、豚肉、アッラー以外の名を唱えて殺されたもの」と定められている。他の動物は食べてよいのに、なぜ豚だけはいけないのであろうか。それは豚の習性と食べ物が不潔であり、不浄であるからだとされているが、はたしてそうであろうか。不潔なのは豚の生来の習性ではなく、飼い主がそのように飼っているからである。
中近東の荒涼たる乾燥地で遊牧の生活をしていたイスラエル民族の宗教であるユダヤ教の聖書には、食べてもよい肉と食べてはならない肉が事細かに定められている。牛や羊、山羊のように蹄が二つに分れ、反芻をする動物は食べてよいが、そうでない猪や豚は不浄であるから食べてはならないのである。砂漠での運搬に使っていたラクダは反芻動物でなく、蹄をもっていないから食べてはいけないとされている。なぜ、食べてもよい動物は反芻動物でなければいけないのかという答えは、農耕には適していない中近東地域における家畜の飼い方にある。牛、羊、山羊はセルロースを消化できる反芻動物であるから、人間が食べられない牧草、野草、干し草、木の葉などでよく育ち、人間が食べる貴重な穀物や作物を与える必要がない。ところが、豚は反芻をしないから牧草や野草で飼うことができず、人間が食べる穀物を与えなければならない。その上、豚は涼しい谷間や木陰を好み、日の照りつける乾燥地を苦手にしている。汗腺をもっていないので、体温を発散するためには泥の中で転げまわり、皮膚からの蒸散作用と冷たい地面への伝熱作用で体を冷やさなければならない。従って、中東地域で豚を飼うには羊や牛を飼うよりコストがかかるのである。人工的に日陰をつくり、泥だまりに水を用意し、人間が食べる穀物を餌に混ぜてやらなければならない。いづれにしても、羊と山羊、そして牛、鶏など食用にできる動物を多数飼っているのであるから、豚を不可食として食べなくても困ることはなかったのである。