人肉を食べることは世界に共通する最大の食のタブーになっているが、昔、未開の国々で人肉を食べる食人(カニバリズム)という行為がなぜ行われていたのかは、今もなお謎である。入手できる食物が人肉しかないという極限状態で人肉を食べることは一概に咎められない。救命ボートで漂流中の船乗り、雪のアルプスで遭難した旅人、敵に包囲された町の住民などは、仲間の死体を食べなければ飢え死にをする。帆船で長く危険な航海をしていた時代、船乗りが生き延びるために人肉を食べることは「海の慣習」として認められていた。第二次大戦中には敗走する日本の兵士たちが、飢えに耐えられず仲間の死体を食べたことが報告されている。背に腹は代えられずやむなく人肉を食べたもっとも新しい事例は、1972年にウルグアイのラグビーチームを乗せた飛行機がアンデスの山中に墜落したときに起きた。この時の生存者は死んだ仲間の肉を食べて生き延びたのである。これらの事例のように、人間が本当に飢えたときには「人間を食べるのはよくないことだ」、「倫理に反する」というだけでは済まされないことが起きる。
ここで問題にするのはそのような極限状況でのことではなく、ほかの食べ物が手に入るのに互いに食べ合う人々の心理である。 16世紀の大航海時代、ヨーロッパ人による探検が奥地に広がるとともに、カニバリズムのおぞましい報告が増えた。それらの多くは信憑性が疑わしいが、なかには信用できる体験談もある。コロンブスの二度目の大西洋横断に同行した乗組員は、カリブ海のグアドループ島で住民が食人するのを見聞している。その時の船医が故郷に送った手紙によると、島の住民は生け捕りにした敵を家に連れ帰って食べ、戦いで死んだ男の死体は戦いが終わった後で食べつくしたという。1554年、難破してアマゾン河口のトゥピナンパ族に捕えられたドイツ人探検家、シュターデンは、16人の仲間が料理されて食べられるのを目撃した恐ろしい体験談を残している。
この他にも確かな根拠のある事例が報告されているから、社会的慣習としてのカニバリズムが現実に存在していたことについては疑いの余地はない。そのうえ、考古学の資料から判断すると、それはきわめて広い範囲で行われていたと考えられるから、カニバリズムは常軌を逸した行為であって、異常なものだと考えることが難しくなる。ロビンソン・クルーソーは従僕にした現地人、フライデーが食人しようとすることを、「彼らはこれを罪として犯しているのではない。良心の呵責を感じているわけではない。・・・・彼らが人肉を食べることを罪だと考えないのは、われわれが羊の肉を食べるのを罪だと考えないのと同じだ」と述べている。
とすると、考えるべき問題はカニバリズムの道徳性ではなく、その目的である。カニバリズムはタンパク質を補給する単なる摂食行動なのであろうか。確かに報告されたカニバリズムの事例には、そう考えてよいものがある。どの社会でも近親者を殺して食べてはならないというタブーは、人間が集団で暮らし、助け合って生きてゆく基本的な規律である。としたら、食べてよいのはよそ者や敵の人肉でなければならない。つまり、戦争で捕虜にした敵の戦士を食べる戦争カニバリズムなら許されるのである。彼らは人肉を手に入れるために戦争をするのではないが、戦争を行った副産物として捕虜の肉を食べたのである。捕虜の人肉は戦士たちの戦地食となり、村で待っている女たちへの土産にされた。メキシコのアステカ帝国では、人間の供犠とカニバリズムを国家主催で行っていた。毎年殺されて食べられた捕虜や奴隷の数は少なく見積もっても1万5千人以上だったと伝えられている。彼らは家畜を持たず、動物性食物に飢えていたからである。
しかし、カニバリズムには何らかの精神的な意味があると考えてよい事例もある。つまり、人肉には単なる食べ物以上の価値があると考える文化があるのである。パプアのオロカイ族は、死んだ仲間の霊魂を村に留めておくためにその死体を食べていた。ニューギニアのフア族は、仲間の生命の液体、ヌーを再生させてやるために食べるのである。メキシコのアステカ族にとって戦いで捕えた敵の戦士を食べるのは、その戦士の勇気と力をもらうためであり、一人食べれば二人力、二人食べれば三人力になると考えていた。このようなカニバリズムは、人肉食に空腹を満たし、栄養を摂る以外の効果を求める行為なのである。つまり、人肉には象徴的価値や魔力があると考えて食べるのであり、食べることに精神的な意味があることを発見したということになる。現在では生きるためだけに食べている社会はない。どの社会においても食べることは大なり小なり文化的な意味のある行為なのである。原始の村々でかつて行われていたこのようなカニバリズムは、食べることが生理的な実用行為だけに留まらなくなったという人類食文化史上の革命的変化であったのかもしれない。原始の人食い人種も、現代のベジタリアンも同様に、人格を磨き、力を伸ばし、寿命を延ばすと思う食べ物を食べているのである。このように考えるならば、人食い族は食べることに精神的意味を見出した最初の人種なのかも知れない。
ところで、このような戦争カニバリズムは、食料の生産システムが整備されると行われなくなる。未開の社会では、捕えた捕虜を働かせる生産システムが未発達であったから、捕虜は殺すか、食べるか、どちらかにしなければならなかった。しかし、国家レベルの社会には捕虜の労働力を活用できる生産経済が備わっているから、捕虜を殺す必要がなくなり、人肉を食べるのを強く禁じる道徳、倫理体系が確立していくのである。