ヨーロッパにおいても肉食禁忌の思想が全くなかったわけではない。古代ギリシャの数学者ピタゴラスはベジタリアニズム、菜食主義の創始者だということができる。彼とその仲間であるピタゴラス教団では生命の同族性、魂の転生を信じて殺生、肉食を禁じ、菜食を奨励し、且つ、徹底した節食、節制の食生活をした。創世記に人間は菜食者であると記されていて、肉食の禁欲には人を向上させる効果があると信じられてきたので、カトリック系の カルトゥジア会やシトー会では厳しい菜食主義を守っている。 このように宗教上の倫理観に基づいて美味な肉食を禁欲する菜食主義は古くから存在した。仏教には殺生を禁じる教えがあるので、我が国では僧侶のみならず一般の信徒も牛や馬を食用にしない食生活を守ってきた。ヒンズー教でも輪廻転生の観念から菜食主義を守る信徒が多いし、ジャイナ教ではきわめて厳格な菜食主義が守られている。キリスト教では肉食は神の許しを得て行うものであるとされていて、快楽を助長する要素が大きい肉食を抑制することは修行になると位置づけられている。しかし、宗教行為としての肉食を禁忌することが即、ベジタリアニズムではない。
ベジタリアンとは動物・鳥など生き物の命を奪って食べることをよしとしない考えに基づいて、意識的に動物性食品の摂取を避け、穀物、豆類、種実類、野菜、果物を中心に舌食事をする人々を意味する。倫理的、宗教的、あるいは栄養学的な目的を達成するために菜食主義を実践するイデオロギストなのである。ベジタリアンは、宗教、健康、栄養、美容、動物愛護、環境保全など様々な理由から動物性の食品を拒否するという信条の持ち主なのである。つまり、ベジタリアニズムは個人的な食の信条に基づく倫理的な行動であり、食べることについて人間性と精神性を追求する食の思想であると言ってよい。だから、べジタリアニズムは何ごとについても個人の自由を認めるようになった近代社会において大きく発展したと言ってよい。その近代のベジタリアリアンの中にはベジタリアニズムを自分の生活の中だけに留めず、社会的活動にまで拡張しようとした思想家がいた。我が国でよく知られているのは自然主義運動を実践した文豪トルストイと童話作家、宮沢賢治である。
ロシアの作家、レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(1828-1910)は帝政ロシア時代の貴族の四男として生れた。彼は食に関することは個人の生き方にかかわることであり、社会の在り方にもかかわると考えていた。善き生活を実現するためには、自己の欲望をおさえ、他人への愛と配慮、そして労働が必要であると考えて、それを実践する第一段階として禁欲的なベジタアリアニズム生活を実行したのである。また、彼にとって、食べることは自分だけが生きるためではなく、他者と共に生きるためでもあったから、広大な領地、ヤースナヤ・ポリヤーナで農民と共に農作業をして自給自足し、共にベジタリアン生活をした。この生活は「農業をして暮らすことは人間らしい唯一の生活であり、農業生活をすることにより最高の人間の生活が実現できる」というロシア農民主義、ユートピア主義の理念を実践したものでもあった。しかし、このような生活は貴族的な生活をしている夫人との不和を生じることになり、悩んだトルストイは家出をして旅先の駅舎で客死したのである。
武者小路実篤(1885-1976)は、トルストイの食の思想に共鳴し、宮崎に「新しい村」という農業協同体を開設して、農作業を共にして生活することによって、自然との共生とベジタリアニズム精神を実現しようとした。童話作家、宮沢賢治( 1896-1933)がベジタリアン生活をしたのはわずか5年であったが、「フランドン農学校の豚」、「ビヂテリアン大祭」など食の世界を扱ったいくつかの作品を通じて、「食」という問題を、人間の世界に留めておくのではなく、あらゆる生き物の「いのち」の問題、「生と死」の問題として考えようとした。彼が考えるベジタリアニズムとは、身体的な理由や健康上の理由から出たものではなく、あらゆる生き物のいのちを尊ぶという仏教信仰からくるものであった。宮沢賢治が理想としたベジタリアニズムとは、「食」を支えている土地、森、山、川、海、植物、鳥、動物、そして人々が共に生きる共生の実現であった。
19世紀に展開された菜食主義運動は肉食の弊害を説き、菜食が健康に良いことを推奨するものが多く、20世紀になると穀物と果実、野菜で暮らすベジタブル健康法が多数提唱された。近年では環境保全、エコロジーの観点からベジタリアニズムが支持されている。人口増加に対応して食肉を増産することにくらべれば農産物を増産する方がはるかに効率的であり、自然環境にも優しいと考えるベジタリアンである。人々に禁欲や節制を納得させる有効な論理は、宗教ではなく、科学にその役割が求められるのである。食の産業化が発達して、豊食がグローバル化している現代においては、ベジタリアンであることの現代的な必要性と正当性を模索しなければならなくなったのである。それが人間を生態系の一員として捉え、自然環境、生物環境、社会環境との共生を考えようとすることなのかもしれない。
サマー
さん参考になりました。
当方も動物愛護の観点から肉食をなるべく控えるようにしていますが、
その線引きがあいまいでいまだに模索中です。
そもそもこの世界は弱肉強食が普通であり、人間の優位性が高まり過ぎたせいで
菜食主義に向かうというのはわかるのですが、共産主義思想のように、人間の
頭の中から発生したものなので、どこか間違っているような気もします。
肉食とは関係ないですが、ペット産業や動物園、水族館などに対してもその存在をどう判断していいのか
いつも考えてしまいます。
とりとめのない話ですみません。