日本人の誰もが朝食、昼食、夕食と一日に三度食事をするようになったのは江戸時代からである。古代から中世末期までは朝食、夕食の二食で過ごしていた。

 平城宮跡から出土した木簡に「常食朝夕」と書かれたものがあるから、奈良時代の貴族階級は朝夕2回、食事をしていたと考えてよい。平安中期の宮廷では、(あさ)御食(みけ)は午前10時、(ゆう)御食(みけ)は午後4時ごろに供奉すると決まっていた。 しかし、鎌倉時代になると、朝廷をはじめとする公家社会では朝食を済まし、午後2時ごろに軽い昼食を食べ、夕食を夜になってから摂るようになった。鎌倉時代から室町時代には農業技術の著しい発達があった。灌漑技術の発達や肥料の改良、品種改良などによって米の生産量が飛躍的に増大し、二毛作はもとより地域によっては三毛作も行われた。生産力が増大したことによって1日に三度食事をする余裕が生じた野だと考えてよい。公家や僧侶、武士などは1日に三食を食べるのが普通になり、毎日のように酒宴を行うようになった。禅寺の修行僧はそれまで朝に粥を食べるだけの1日一食であったが、日中に点心を食べるようになり、やがて夕食も摂るように変わったのである。

 中国大陸やヨーロッパではどうであったのであろうか。中国では紀元数百年前の戦国時代から1日二食が普通であり、宋の時代になってから上流階級は朝夕の食事のほかに、1回か2回の点心(軽食)を摂るようになった。エジプトでは紀元前13世紀、古代新王国の時代から1日三食であり、同じころ、ギリシャの都市国家でも1日三食であった。ところが、ローマ時代になると、朝食をごく軽く済ませて、昼の正餐と夕食をしっかり摂るようになり、その後、近世まで1日二食の習慣が長く続いていた。13世紀のカスティーリヤの農民はパンとチーズにワインの昼食を摂り、夕食にはそのほかに野菜と肉、あるいは魚のポタージュを食べていたが、収穫の季節には昼に量は多くないが三つ目の食事を食べていた。14世紀、フランスの貴族、ブルゴーニュ公爵家では、朝10時に正餐を摂り、夕方6時に軽い夕食を食べていたが、成長期の子供には朝の7時か8時に半熟卵と焼き林檎とスープの朝食を与えていた。

 日本でもヨーロッパ諸国でも、誰もが1日に3回の食事をするようになったのは、僅か300年ほど前からなのである。それまで1日、二食が長く続いていたのは、基本的には飢饉などが多く、食料が十分になかったからであろう。人間は食べなければ生きていけないから、人々は乏しい食料を仲間と分け合うために欲しいだけ食べることを慎んだのであろう。この習慣が中世に広まった仏教あるいはキリスト教などの信仰と結びついて、日に三度食べるのは罪悪であるという禁欲思想になったと考えてよい。

 鎌倉時代の禅僧、無住国師の「雑談集」に「昔の寺はただ一食にて、朝食一度しけり。次第に器量(修行心)弱くして,非時と名付けて日中に食し・・」とあるように、禅寺では日に一度の食事で我慢するのが修行であった。中世のキリスト教社会では、人間は神の(しもべ)として貪らずに食べるという食の節制、自制が求められていた。美味なものを我慢することが贖罪になると信じられていて、肉を食べない精進日や何も食べてはいけない断食日が1年を通じて数多く定められていた。必要以上に何度も食べること、また必要もないのに食べることは「腹の貪欲」という大罪であり、「1日に1度食べるのは天使の生活、2度食べるのが人間の生活、腹を空かせた労働者が1日に3度も4度も食べるのは動物の生活」であると教えられていた。

 しかし、洋の東西ともに、食料の生産量が増え、信仰の束縛から解放されて人間らしい生活を楽しむことができる近代市民社会の到来とともに、1日三食の習慣が広まったと考えてよい。しかし、1日、2食から3食への変わり方は東西で異なっている。日本では朝食と夕食であったところに後から昼食が加わったのであるが、ヨーロッパでは昼食と夕食であったところへ朝食が加わって1日、3食に変わったのである。ヨーロッパでは昼食が最も充実した食事であり、時間をかけて楽しむのが習慣である。そこへ割り込んだ朝食を英語でブッレクファーストというのは、夕食から翌日の昼食までの断食を中断するという意味である。だから、パンとバターに、コーヒか紅茶という質素なコンチネンタル・ブレックファーストが今でも続いている。 日本では夕食に重きが置かれていて、昼食はいまだにとりあえず空腹を満たせばよいと軽く扱われている。家庭の主婦は朝食の残りものか、あり合わせのもので済ませ、勤めに出る主人や学校に通う子供は給食や軽い外食、あるいはコンビニ弁当などで済ましている。