禅宗の寺院では食事をつくることと、それを食することは座禅をすることと同じように大切な修行であると考えられている。鎌倉時代、曹洞宗の開祖となった禅僧道元が、仏法に適うように食事をつくり、作法を守って食べることが禅の修行になることを説いたのである。そして、「法は是れ食、食は是れ法」であるべきという法食一体の食事理念を提唱した。私たちが、食前、食後に「いただきます」「ごちそうさま」と唱えて、食べ物となってくれた生き物の命と、食事作りをしてくれた人々に感謝するのは道元が教えた食事作法である。道元は食事をすることの意義を考えて禅の思想にまで高めた我が国、最初の食の思想家であると言ってもよい。
、道元は中国留学中に阿育王寺で修行僧の食事を準備する典座の役職を務める老僧に出会い,食事作りをすることは禅の修行道場における大切な修行であると諭され、帰朝してからその教えを「典座教訓」と「赴粥飯法」にまとめた。
「典座教訓」には修行僧の食事を準備する典座という仕事の心得が教示されている。その要点を中村璋八ら、全訳注 「典座教訓、赴粥飯法」から抜粋して紹介する;
「禅院での食事を作るには必ず仏道を求める心を働かせて、季節に従って春夏秋冬の折々の材料を用い、食事に変化を与え、修行僧たちが気持ちよく食べられ、身も心も安楽になるように心掛けなければならない」
「米を研いだり、おかずを整えたりすることは典座が自身で手を下し、細かな点まで気を配り、心を込めて行はなければならない。 食事には苦い、酸い、甘い、辛い、塩からい、淡い の六味がほどよく調っていて、あっさりとして柔らかである、清潔で穢れがない、順序正しく丁寧に調えられている という三徳が備わっていなければ、修行僧に供養したことにならない。典座の仕事を通じて大海のように広大で深い功徳を積み、山のように高い善根を積み重ねるためにも、些細なことを疎かにしてはならない。そうすれば、おのずと三徳は十分に行き届き、六味はすべて整い備わってくるであろう」
「いただいた材料は、量の多い少ない、質の良し悪しをあげつらってはならない。ただひたすら誠意を尽くして調理をするだけである。粗末な品物を扱うことがあろうとも決して怠り怠けるような心を起すことなく、また、上等な材料を用いて料理を作ることがあったとしても、一層おいしい料理を作るよう努めるのが修行に励むということである。食事の材料が自分の心に入り込んで離れないようにする気持ちで、心と食べ物が一体になるよう精進修行するのである」
「修行僧に供養するための食事を支度し整える際の心構えは、材料が上等であるとか、粗末であるとかを問題にすることなく、仕事に対しては深い真心をもって当たり、食品材料に対しては、物を大切にして敬い重んじる心をもつことが肝要である。粗末な食べ物も仏身であるこの肉体を養い、悟りを目指す心をよく育ててくれるということを、よくよく思いなさい」 因みに、禅院の精進料理を源流として発展した我が国の伝統料理では、四季折々の食材を使い、その持ち味を生かして、味を柔らかく、清潔に調理することが調理の基本になっている。道元が教えた禅寺の食事思想は後世の日本の食事文化に大きな影響を残したのである。
赴粥飯法」には禅寺における朝、昼の食事作法が細かに説明されている。
「維摩経に説かれているように、もし食物において等ならば、あらゆる事柄においても等であり、あらゆる事柄において等ならば、食物においても等である。われわれの生き方を法性、真如,一心、菩提に求めるならば、食もまたそうでなければならない。食は法と一体であるとみなすことにより仏道修行の対象になるのである」
「食事の合図があると会衆は袈裟を身につけて僧堂に一斉に入堂して定められた場所に結跏趺坐する。住持が入堂、着座すると、会衆は持参した食器包みを開き、鉢、匙、箸を並べる。各自の鉢に粥、飯、汁などが給仕されるので、つつしみ敬う気持ちを込めて必要なだけ受け、食べ残ししないようにする」
「首座は食前の祈りとして施食の偈を唱える。朝食は粥であるから「粥には血色をよくする、力を得る、寿命を延ばす、苦痛がない、言葉がはっきりする、胸のつかえが治り、風邪が治り、空腹が癒え、喉の渇きが消え、大小便の通じがよくなる、の十徳があり、その果報は極まりない」と唱える。昼のご飯のときには「三徳と六味の備わったこの食事を仏と僧とこの世に生きとし生けるものに施し、すべてに同じく供養し奉る」と唱える」
「施食の偈を唱え終わると、合掌して五観を念じて食事を始める;
一つ、目前におかれた食事が出来上がってくるまでにはどれだけ多くの手数がかかっているか、これらの食物がどのようなところから来たのかを考えてみる
二つ、自分がこの食事の供養を受けるに足るだけの正しい行いをしているか反省する
三つ、食事を摂るについて貪りの心、怒りの心、道理をわきまえぬ心を起してはならな
い
四つ、食事を頂くことは、とりもなおさず良薬をいただくことであり、それはこの身が
痩せ衰えるのを防ぐためである
五つ、食事を頂くのには仏道を成就するという大きな目標があるのである 」
更に、道元は四季折々のものを毎日工夫して料理に変化を持たせ、修行僧が気持ちよく食べられるように配慮しなさいと具体的に教えている;野菜にしても魚介にしても四季それぞれにもっとも味がよくなり、栄養が充実する旬がある。それを考慮して調理にも工夫を加え、料理に変化を持たせるということは、決して美味、美食に堕落することではない。料理するということは、原材料である食材をより食べやすく加工することであり、程よく調理された料理は、生理的には勿論のこと、むしろ精神的に深い充足感を喫食者に与える。 此のことを心得ておれば、食べ物はその持ち味を十分に発揮して、喫食者の食欲を増し、結果的には食べ物を粗末にしないで大事にすることになる。それを食べる修行僧は、調理してくれた典座の深い心をくみ取り、感謝して食べることになる。かくして、調理から喫食に至るまでのすべての場面が、修行僧はもとより食事を準備する典座にとっても、人格形成、仏道修行の道になると教えている。
道元は、禅院での食事は肉体を養うための単なる飲食とは異なることを明らかにして、食事を整え、食べるという行為を仏道の実践という宗教的次元に高める論理づけをしたと言ってよい。もちろん、道元が説いた禅の食事思想は、一般人の食生活のすべてに敷衍できるとは思われないが、食べるということが肉体(身)を養うだけではなく、精神(心)をも育てるという考えは、今日の私たちの食生活において最も欠如しているものと言わねばならない。