食料の生産に余裕が生じ、人々の暮らしが豊かになった近代においては、食べる快楽を楽しむ美食思想と、食べものの栄養を重視する食事思想が、食に関する二大思潮になっている。
食物の栄養を研究する栄養学は19世紀に発展した近代科学であるが、食べるものが健康と深い関係があることは古くより経験的に知られていたことであった。病気を予防し、健康に過ごすには、正しい食事をしなければならないという思想は、古くから多くの文化圏にあったのである。食べることは医療に通じるという考えは医食同源という四字成語で分かりやすく表現されるが、この熟語は40年ほど前に日本で考案されたものである。
食べ物と健康、疾病とは密接な関係があるという考えは、ヨーロッパ、インドそして中国で古くから論理的に整理されていた。古代ギリシャの医師で「西洋医術の父」と尊敬されているヒポクラテスは、病気にかかっている人を食養生によって治療することを考えた。英語でも、フランス語、イタリア語でも、料理法をレシピと言うのは、元をたどれば薬の処方箋という意味である。ギリシャ医学は、自然の摂理は火、水、気、土の四元素と冷、熱,乾、湿の四性質の組み合わせであるという四元素、四性質説を基礎にしている。自然と調和して健康を保つために、穀物、豆、野菜、肉、魚、果物とチーズ、水、ワインなどを、熱冷乾湿のバランスよく摂取することが必要だという考えである。。食べ物には熱い、冷たい、乾いている、湿っているという4つの性質があるので、血が多くて熱がある場合にはサラダや瓜など冷たい食べ物で冷やすことを処方するのである。14世紀に西ヨーロッパでペストが大流行したとき、ペスト患者は「熱いスパイス」を禁じられ、「血を動かして過敏にする強いワイン」を飲むことを控えた。
「アーユルヴェーダー」にまとめられているインド医学は、空気、胆汁、粘液を三要素とする均衡説(トリドーシャ説)で構成されている。この三要素の働きが平衡状態にあるとき人間は健康であり、不均衡になると病気が生じると考えるのである。そして、このアンバランスが身体に蓄積した不健康状態から回復するには、食事療法をするのがもっとも有効であり、薬草はその補助手段であると考えられていた。すべての食物は穀物、豆類、肉類などに分類され、さらに流動物と固形に分けられ、さらには甘,酸、苦、辛、塩、渋の六味に細分されていて、病気に応じて効果のあるものを選択して食べるのである。
中国の伝統的医学は陰陽五行説によって体系化されている。陰陽五行説では食物を五穀、五果、五畜、五菜に分類し、いかなる季節に、いかなる食物を食べるべきか、あるいは、この病気にはこの食物を与えるなど細かく定めている。中国文化の影響を強く受けた朝鮮にも、五穀と五種の野菜は人を養う薬であり、日々少なめに食すべしという食時五戒がある。中国で発達した本草学では、自然界にあるすべてのものについて人体に対する薬理作用が研究されていた。近年、日本で流行している薬膳料理は、これらの中国の伝統医学、生薬医学に基づいた食養生料理である。薬膳料理の基本は体を温める食物と冷やす食物の使い分けである。例えば、風邪をひいて寒気や悪寒を伴うときは、血液循環や栄養成分の吸収を促す温熱性食物である甘酒粥や生姜と干しエビの粥がよく、高熱があるならば、鎮静、消炎作用のある寒冷性食物である大根と干し貝柱の粥、あるいは春菊と菊の花の粥が効くという。