19世紀、近代栄養学の成立により食の思想はその様相を一変することになる。食物を通じて摂取した炭水化物、タンパク質、脂質の三大栄養素、ビタミン、ミネラルの微量栄養素が体内で消化、吸収されて生命活動に利用され、体の組織を生育させる栄養の仕組みが科学的に解明されたのでである。近代栄養学の幕開けともなった事件は、それまで多くの人々を苦しめてきた脚気と壊血病が、どちらも食事の摂り方で予防、治療できたことである。

 富国強兵に邁進する明治政府は明治6年(1873年)、徴兵制によって近代的な陸海軍を編成した。兵営で兵士に支給したのは1日に白米6合を摂る食事であり、当時、白米を食べられず、麦飯を食べて暮らしていた農村の青年は「軍隊に入れば白い飯が腹いっぱい食べられる」と喜んだという。ところが、兵士たちに脚気が蔓延したのである。脚気は米を主食とする民族に特有の疾患であり、初期の症状は身体の倦怠感、食欲不振などに過ぎないが、やがて多発性神経障害が起きて、ついには呼吸不全、心不全によって死亡する恐ろしい病気である。

 脚気の原因が白米食にあるらしいと判断した海軍医務局長、高木兼寛は水兵の食事をパン、あるいは大麦を混ぜた飯に替えることにより脚気を一掃することに成功した。しかし、陸軍では医務部長であった森林太郎(後の文豪、森鴎外)らが麦飯の採用を躊躇したため、日露戦争での戦病死者4万7000人の中、脚気による病死者が2万7800人にもなるという悲惨な結果を招いた。 脚気がビタミンB1の欠乏症であると証明されたのは、1910年、東京大学教授、鈴木梅太郎博士が米糠から脚気予防に効果がある成分、オリザニン(後のビタミンB1)を単離したことによる。米の胚芽に多く含まれていたビタミンB1は、玄米を精白して白米にする過程で大部分が失われていたのであった。食物の微量成分、ビタミンが不足すると疾病が起きることを科学的に証明し、食事の栄養改善に成功した最初の事例であった。

 これより400年も昔の大航海時代から、大洋を航海する船員たちを苦しめてきたのは壊血病である。まず倦怠感が生じ、ついで体中の組織から出血が始まる。歯茎が腫れて出血し、痛くてものが噛めなくなり、脚の関節も腫れて炎症を起こすのである。1497年、バスコ・ダ・ガマが初めてインドへの往復航海をしたときには、180人の船員のうち100人が壊血病で命を落としたと伝えられている。それから250年間、壊血病の原因は全く判らなかったが、ようやく1753年、イギリス海軍省のジェームス・リンドが新鮮な野菜や果物の欠乏が原因ではないかと推察し、レモンやミカンを与えると症状が改善され、予防もできることを見出した。壊血病はビタミンCの欠乏症であることが科学的に解明されたのは1932年のことである。ビタミンCが欠乏すると皮膚や粘膜のコラーゲン組織が弱くなり、血管から出血が起きるのであった。