二〇世紀になると、人体の生命現象を化学反応として説明する近代栄養学が成立し、その知識が国民の栄養状態の改善に利用されることになった。近代国家においては、政府が国民の健康増進に対する責任を負うことになり、古来、個人の経験と判断に任されていた食事の摂り方が、国家によって指導されることになった。 多くの先進国においては、国民が健康の維持、増進のために摂取するべき食品エネルギーと栄養素の摂取目標量を「栄養所要量」として定めている。また日常的に摂取する多くの食材や食品について、その栄養素含有量を記載した「食品標準成分表」を活用して、どのような食物や食事の摂り方が健康づくりに役立つかを示す「食事摂取基準」や「食生活指針」が整備されている。
日本に西欧の栄養学思想が導入されたのは明治維新のときである。近代国家の建設を目指す明治政府にとって、国民の体位向上、疾病予防、健康増進は焦眉の急であった。そこで、国民の栄養摂取状況を改善するため、近代栄養学の知識を活用して栄養バランスの悪い和食を改善することが国家指導で始まった。 日本における全国規模の食料需給調査は、明治12年(1879年)、内務省が各県ごとに米、麦、雑穀、芋、蔬菜などの消費状況を調査した「人民常食調査」が最初である。さらに、明治16年には日本最初の食品成分分析表が発表されている。そこには約90種類の食品について、タンパク質、脂肪、炭水化物,灰分、水分の含量が記載されている。さらに、内務省衛生試験所長心得の田原良純は、国民が必要な栄養を摂取するために必要な「標準食料(基準)」を定めた。今日、国民に栄養指導をする根拠としている食料需給表、日本食品成分表、日本人の食事摂取基準の始まりである。
大正10年(1921年)に国立栄養研究所が設立されると、初代所長となった佐伯 矩は、一般人のための栄養教育、栄養知識の普及活動に力を注いだ。因みに、それまでの「営養」という用語を「栄養」に改めたのも佐伯である。栄養に関する科学知識は、女学校での家事教科書や調理実習、新聞雑誌の料理記事、公的機関による栄養講習会などを通じて世間に広がり、食物のカロリーや栄養素のバランスを考慮して食事作りをすることが徐々に始まった。しかし、一般庶民はまだ貧しくて誰もが栄養十分な食事を摂れたわけではなく、ことに第二次大戦後はひどい食料難に陥ったから、国民の栄養改善は遅れた。
日本人の栄養状態が著しく改善されたのは第2次大戦後のことである。戦前の米食中心、つまり澱粉質を多く食べる食生活から脱却して、肉類や乳製品など動物性食品を多く摂る欧米型の食生活に変える栄養改善運動が実施されたからである。その結果、動物性食品の摂取が増えて、昭和60年ごろにはタンパク質、脂肪、糖質の摂取比率が理想的なバランスに収まるようになった。そして、成人の身長は戦前に比べて10センチ伸び、平均寿命が30歳も延びて世界一の長寿国になったのである。今日ではどの家庭でも食事の献立は、糖質、タンパク質、脂肪など栄養素のバランスやカロリーを考えて作るのが普通になっている。食べるものが健康の保持と病気の予防に大切であることは昔から誰もが経験的に知っていたが、そのことを栄養学の科学知識で理解して毎日の食事作りに生かすことがようやく実現したのである。
このように栄養学の科学知識を活用して栄養バランスの良い食事作りを実現し、国民の栄養状態を改善したことは素晴らしいことであった。しかし、そのために、食べることについてカロリーや栄養素が過大評価されることにもなった。豊かな食事ができるようになった今日、よほど偏った食生活をしているのでなければ、カロリー不足や栄養素不足になることはない。私たちは、栄養素を直接に食べるのではなく、食べるのは食材であり、料理である。人々がどのような食事をするかを決めるについては、栄養学の知識もさることながら、個人的な嗜好や文化的あるいは社会的習慣などがより強く作用するのが普通である。人々の食べる行為を規定しているのは唯物的な栄養科学ではなく、歴史的に形成された食習慣であり、個人的な食の嗜好である。それに加えて、近年は食料自給率や、農薬、食品添加物の安全性なども考慮しなければならない。栄養素、カロリーが足りておればそれでよいと考える唯物的栄養学が、近年、食べることは空腹を満たし、栄養素を摂るだけのことに過ぎないと考える風潮を生み、その結果として思いもよらぬ食生活の混乱を招くことになった。