1.食料を大増産して深刻な食料難を解消した

 第二次大戦直後の日本は深刻な食料不足に陥っていたので、米をはじめとするあらゆる農産物を増産することが何よりの急務であった。戦時中に農業生産力が低下してあらゆる農産物が不足していたのである。特に深刻であったのは主食にする米の不足であった。第二次大戦が始まる前の昭和10年代の米の年間消費量は平均1100万トン、一人当たり年間160キログラムであり、これに対して生産量は国内米が950万トン、朝鮮、台湾からの輸入米が約190万トン、合せて1140万トンであったので、国民の必要とする米は国内(旧植民地を含めて〉で自給できていた。  

 ところが、第二次大戦が始まると農村では男子が徴兵されて労働力が足りなくなり、肥料も不足して米の生産量が激減し、輸入米も途絶えた。政府は米を配給制にして一人1日,2合3勺、345グラム、年間126キログラムを確保しようとしたが、戦争末期にはそれもできなくなった。戦争が終わった昭和20年には米の生産量は550万トン、一人当たり77キログラムにまで落ち込んでいた。民衆はサツマイモ、カボチャ、さらには豆粕、ふすま、米ぬか、芋の茎までを主食代わりに食べる「代用食」で飢えを凌いだ。昭和21年の食料メーデーには、25万人もの飢えた群衆が「米寄こせ」のプラカードを掲げて皇居に乱入するという騒ぎが起こった。白い米飯は銀シャリと呼ばれるほどに貴重なものであった

 しかし、農地解放が実施されると農家の生産意欲が高まり、化学肥料と化学農薬を使って米の増産が始まり、1ヘクタールあたりの収量が戦前の3トンを超えて5トンに達した。生産量は急速に増加して昭和30年には戦前の生産量を回復し、昭和42年には過去最高の1445万トン、一人当たり143キログラムに達した。ところが、その頃から食事の洋風化が進んで米の消費量が減り始め、米が余るようになった。米の消費量は昭和63年には962万トンになり、平成27年には766万トンに減少した。一人あたりにすると戦前に比べて6割減の年間60キログラム、1日、165グラム、ご飯にすれば茶碗に2杯足らずで充足するようになったのである。かくして稲作が伝来してから2千年、明治になってからでも百年続いていた米不足は、昭和40年代になって解消し、国産米は史上初めて生産過剰になったのである。 それは、食事が洋風化して三度に一度はパン食をするようになり、さらに肉料理、油料理など副食を多く摂るようになったので、ご飯の摂取量が減ったからである。米から摂取するカロリーは戦前には総摂取カロリーの60%を占めていたが、それが30%に減少し、戦前には家計費の25%を占めることもあった米代は4%で済むようになった。

  そこで米の需給を調整するために、昭和45年から米の作付面積を制限する減反政策が始まり、水稲の作付面積は昭和44年の317万ヘクタールをピークとして減少して昭和60年には232万へクタールに減った。平成27年現在、稲の作付面積は148万ヘクタール、米の生産量は843万トン、消費量は765万トンであり、ピーク時に比べて作付面積は半減、生産量と消費量は共に6割前後に減っている。米の生産金額は1.8兆円、GDPの僅か0.4%に減少したのである。そして、私たちの先祖が営々と拡張してきた水田の実に40%にあたる100万ヘクタールが休耕田として放置されている。このような「コメ離れ」、「コメ余り」は古代以来続けてきた米を主食とする食習慣が大きく変貌したことを意味する。農水省が平成27年に調査したところ、コメ離れは特に若い世代に顕著であり、20歳代の男性の2割、女性の1割は1か月に一度も米飯を食べていない。民族の主食事情が短期間にかくも様変わりしたことは諸外国にはなかった現象である。                          

 米の増産とともに、小麦、大麦、ついで野菜、果実なども生産拡大が続けられた。小麦の生産量は昭和30年代前半に150万トン前後に回復した。しかし、その頃からパン食が普及して需要が400万トンに急増したので、海外から安い小麦を輸入して不足を補うことになった。そのために、国内での小麦の生産は急激に減少しはじめ、昭和51年には22万トンまでに減少した。その後、水田の転作奨励金を得て増産が行われたので昭和63年以降は生産量80万トン前後で推移している。現在では小麦の需要600万トンの87%を輸入に依存しているのである。日本の農業は昔から米作りが中心だったから農地の54%は水田であり、食用油を絞る大豆、トウモロコシや飼料穀物を大量に栽培する広い畑はない。大豆の生産量は昭和30年に戦前の生産量50万トンを回復したが、その後は海外からの輸入が480万トン前後に急増したので、国内での生産は20万トンにまで減少し、国内自給率は5%に低下している。トウモロコシ、高粱、大麦など飼料穀物の輸入量は、昭和35年の160万トンから昭和60年代2200万トンにまで激増した。この間に国内での飼料穀物の生産は安い輸入穀物に押されて、266万トンから20万トンにまで減少してしまった。このようにして、小麦、大豆、トウモロコシは必要量のほとんどを海外から輸入することになったが、それ以外の農産物は昭和45年頃には何とか自給できるようになった。戦後の食料不足がようやく解消した昭和35年に比べてみると、昭和45年までに肉類の需要は3.0倍、卵は2.6倍、乳製品は2.4倍、野菜は1.3倍、果実は1.9倍に増加したが、これに対して国内生産量は、肉類は2.9倍、卵は2.5倍、牛乳、乳製品は2.5倍、野菜は1.3倍、果実は1.7倍に増加したので、どれも必要量の90%以上を国内で自給できるようになったのである。これは、第二次大戦後の30年間、海外からの農産物の輸入に厳しい制限措置を設けて国内農畜産業を保護してきた成果でもあった。                                                 

  しかし、小麦、大豆、トウモロコシを除いてではあるが、農産物の国内自給が続けられたのは昭和45年頃までであり、それ以降は人口が1億人を超えて増加し、その豊かな食生活を賄うだけの食料を国内で生産することが全くできなくなった。昭和50年代になると農産物の貿易自由化を求める國際貿易機構、ガットの要求が厳しくなり、農産物の輸入制限を次第に緩和、撤廃せざるを得なくなり、輸入農産物が急増してきたのである。昭和46年にまずグレープフルーツの輸入が自由化され、続いてかんきつ類、熱帯果実、ぶどうなどの輸入が始まり、昭和50年代になると畜産物の輸入が急速に増加した。その結果、国内農畜産業は価格競争力を失って後退し、総合食料自給率が急速に低下することになった。   生鮮さが大切な野菜は輸入をしないで国内生産に任せていたから、国内生産量は増加し続けて昭和50年代には1700万トンに近づき、輸入野菜は10万トンもなかった。しかし、昭和60年頃より外食や加工食品に使う冷凍馬鈴薯の輸入が始まったのをはじめとして、冷凍野菜、塩蔵野菜、乾燥野菜などの輸入が増加してきた。続いて、鮮度保持、輸送技術の発達によってかぼちゃ、アスパラガス、ブロッコリー、里芋、しいたけなどの生鮮野菜も輸入され始めた。こうして、輸入野菜が平成11年に300万トンを越えると、その安い価格に押されて国内の野菜生産は減少し始め、自給率が80%前後に低下することになった。日本人は昭和40年代まで動物性たんぱくの半分以上を水産物から摂取していた。そのため、沿岸から沖合へ、更に遠洋へと世界中の魚を求めて漁獲量を増やし、昭和35年ごろには国内で消費するだけでなく欧米諸国に輸出もしていた。昭和40年、漁業専管水域200海里体制が設けられると北洋でのさけ、ます、すけとうだら などの漁獲が急減したが、さば、いわし、あじ、いかなど近海での漁獲量を増やして漁獲量1100万トンを維持して平成元年ごろまでは100%近い自給が出来ていたのである。ところが、それ以降は近海での漁獲量が急速に減少し始めたために、平成10年代に入ると総漁獲量が600万トン以下に減少し、350万トンを超える魚介類の輸入が必要になり、自給率は50%台にまで低下した。

 このような経過をたどって昭和50年代になると、戦前とは比べものにならない豊かな食生活ができるだけの食材を手に入れることができるようになったのであるが、その全ての食料を国内で増産できたわけではなく、その半分近くを海外から輸入して補うことになった。そのため、総合食料自給率が40%にまで低下することになったが、その原因は人口が7500万人から1億2700万人に増え、且つ、食生活が豊かになって一人あたりの食料需要が倍増したことにある。