2. これまでに経験したことがない食品危害が現れた

もう20年以上前のことになるが、「環境ホルモン」という衝撃的な言葉がマスコミを賑わせたことがあった。 かつて多量に使用していたDDTやBHCなどの有機塩素系農薬、都市ごみの焼却炉から放出されるダイオキシン、食器や哺乳瓶に使用している人工樹脂、船底塗料から溶け出す化学物質などが、極めて微量ではあるが人間や野生動物の内分泌物質、特に性ホルモンの作用をかく乱し、生殖や出産、発がんに悪影響を及ぼすことがある。 このような化学物質が「環境ホルモン」である。

調べてみると、日本人が魚などを食べて体内に取り込む塩素系農薬、DDTは1日に3マイクログラムと少なく、1日許容摂取量の1%以下であるから大丈夫と考えてよい。都市ごみを焼却するときには、塩化ビニールからダイオキシンが生成し、排煙とともに放出されて大気、土壌、河川などを汚染する。それが主として魚介類に取り込まれて蓄積し、私たちの口に入ることになる。ダイオキシンは複雑な有機塩素化合物であり、低濃度でも女性ホルモンに似た作用を発揮して強い発がん性と催奇形性がある。平成12年、産業廃棄物の焼却施設が密集している埼玉県所沢市周辺で採れた野菜にダイオキシン汚染が見つかったと報道されると、ダイオキシンに対する不安が一気に高まった。幸い、その汚染は危険なレベルではなかったが、これを契機として全国的に焼却炉の改修が進められたからダイオキシンの排出は少なくなった。私たちの体内に入り込むダイオキシンはほとんど全部が食事経由であり、それも魚介類からである。体内に入り込むダイオキシンは一時に比べれば減少していて、成人であれば1日に75ピコグラム(1ピコグラムは1兆分の1グラム)程度である。ダイオキシンの1日許容摂取量は200ピコグラム程度であるから、それほどの心配はいらないと考えてよい。

 ポリカーボネート樹脂製の食器や哺乳瓶などからは、樹脂に硬化しないで取り残されていたビスフェノールAが溶け出すことがある。缶詰の内面塗装に使うエポキシ樹脂から溶出することもある。この化合物には女性ホルモンの2万分の1程度の弱いホルモン作用がある。おしゃぶり玩具、輸血用血液バッグ、弁当の箱詰め作業に使う手袋など柔らかな塩化ビニール製品からは、塩化ビニールを柔軟にする可塑剤、フタル酸ジエチルヘキシルが数マイクログラム程度ではあるが溶け出して、女性ホルモン作用を示すことがある。幸い、ビスフェノールAやフタル酸ジエチルヘキシルの摂取量は1日許容摂取量の10分の1程度と考えられている。カップ麺の発泡スチロール製カップに湯を注ぐと、スチロール樹脂の原料であるスチレン・ダイマーやトリマーが数マイクログラム溶け出す。これも環境ホルモンとして働くのではないかと心配されたことがある。トリブチルスズやトリフェニルスズなどの有機スズ化合物は藻類、貝類の増殖を防ぐので、漁船の船底や漁網に塗る塗料に使用されていた。しかし、それが海水に溶けだして水生生物に蓄積し、巻貝に性器異常が生じることが判明したので使用が禁止された。

我々は食品添加物や農薬だけでなく、医薬、化粧品、洗剤、プラスチック製品などに10万種類もの合成化学物質を使っている。 これら化学物質は製造し、使用される過程でごく一部が環境中に放出されるから、それを吸い込んだり、食事とともに体内に取り込んだりすれば何らかの健康被害を生じる危険がある。 この危険性は国際的にも認識されていて、2001年(平成13年)のストックホルム条約で残留性のある有機汚染物質(POPs)の製造と使用を制限することが合意された。 平成10年、環境省がDDT,PCB,ダイオキシン、ビスフェノールAなど環境ホルモンとして働く疑いが強い化学物質36種類について調査したところ、現在、大気や河川を汚染している超微量の濃度ならば、魚に影響するものはあっても人間に影響することはないと報告している。 かつて報告された野生生物の生殖異常の多くは工場事故などによる局地的あるいは一時的の濃厚汚染の結果であったらしいが、数えきれないほどの化学物質が長期的に人の健康にどう影響するのか、それはまだ完全に解明されたわけではない。