安政5年(1858)徳川幕府がアメリカ、イギリス、フランス、ロシアと相次いで修好通商条約を結ぶと、日本にやってくるイギリス商人やアメリカ商人が急速に増えてきた。彼ら、横派の居留地に住む2400人もの外国人や入港する外国船の乗組員たちにイギリス製のビールが盛んに飲まれているのに目を付けて、横浜居留地内でビール醸造を始める数人の外国人がいた。その中の一人が日本のビール産業史に名を残したノルウエー生まれのアメリカ人、ウイリアム・コープランドである

 彼はドイツ人からビールの醸造技術を習得して文久4年(1864),30歳で来日し、六年後の明治3年、横浜山手町にビール醸造所を開設した。天沼という泉のそばに建てられたのでスプリングヴァレー・ブルワリー{泉が涌く谷の醸造所}と名づけられたビール醸造所がそれである。現在、その跡地は横浜市立北方小学校の敷地になっているが、校庭の隅に当時ビール醸造に使った洋式の井戸が保存されている。醸造設備、麦芽、ホップ、酵母などをアメリカから取り寄せ、イギリス風のエールとドイツ式のラガービールを醸造したのである。これらのビールは居留地に居住している外国人に人気があり、日本人にも「天沼ビヤザケ」の愛称で親しまれた。当初の醸造高は年産890石(160キロリットル)であったらしいから、わが国最初の本格的なビール醸造所であったというべきであろう。

この醸造所で作られるビールの品質は良かったのであるが、後に共同経営者になったエミール ウイーガントとコープランドの意見が合わず経営は次第に不振になり、遂に明治17年に醸造所は競売に付せられることになった。しかし、コープランドが熱心に指導した村田吉五郎、久保初太郎など数人の技術者は各地の地ビール醸造所の技師となって活躍することになったから、彼が日本のビール産業の幕開けに果たした功績は大きい。

コープランドはその後の数年間、工場の隣地でビヤガーデンを経営して暮らしていたが、明治26年、35歳も若い日本人妻ウメとを伴って横浜を離れ中米ガテマラに赴いた。しかし、そこで始めた日本雑貨の小売業に失敗し、失意のうちに再び横浜に戻って明治35年、68歳で病没した。今、彼は半生を過ごした懐かしい横浜の街を見降ろす山手の外人墓地に妻ウメと共に眠っている。コープランドが残した醸造所は明治18年、幕末に武器商人として活躍したトマス・グラバーや三菱財閥の岩崎弥之助らが出資したジャパン・ブルワリー会社によって再建され、その後、同社の事業を継承したキリンビール株式会社の山手工場になったが関東大震災で倒壊して失われた。

しろくま

  さん

横浜にビールのイメージが浮かばなかったので、
これからは横浜を訪れたらビールのことも思い出してみます。

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